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あぶちゃんって一体なに?

    歯医者さんに行きました。治療の椅子に座ると 若い女性看護士サンが「それではエプロンをかけますよ」 エッ! エプロン?ここで料理でもするの? こりゃ「あぶちゃん」なんでしょ、と言うと、「あぶちゃん」って何ですか?と質問がかえってきました。  あぶちゃん、これは赤ちゃんのよだれかけの小さな布です。もうこの言葉は使われなくなったのでしょうか。私の妹が赤ん坊の頃は 食事のたびに母が「ハイあぶちゃんですよ」と首に巻いていました。私の妻も子供達にそう言っていたと記憶しています。  なんであぶちゃんというのか、調べてみると・・・・・明治時代の頃、いつも前掛けをしている油屋さんが 詰まって「あぶ」、これに愛称がついて前掛けは「あぶちゃん」になったそうです。それに因んで、赤ちゃん用のよだれ掛けのことも「あぶちゃん」と呼ぶようになったそうですよ。  そういえば、「あぶさん」というマンガがありましたね。1973年から連載されている水島新司氏の野球漫画です。近頃の若い人たちはそれをイメージしているのではないでしょうか。 あぶちゃんは人の名前ではなく、よだれかけのことだとはもう知らない時代なのでしょうか。  看護士さんは「あぶちゃんってかわいい言葉ですね」と笑っていました。

ビールの友だよ、らっきょうのワイン漬け

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  6月初めにスーパーマーケットでビニールの袋一杯の洗いらっきょうを見つけました。当節、手間をかけてらっきょう漬けを作る人はいないのでしょうか、棚にきれいに並べられた野菜から離され、無造作にかごの中に置かれ値引きのラベルが貼られています。 らっきょう、懐かしい思い出が頭を過ぎります。幼い頃、私の母が梅雨時にはかならずらっきょうを皮むきして、ガラスの大瓶に漬け込んでいたからです。私も姉と共に皮むきを手伝いました。   どこかの居酒屋のお通しで出た、らっきょうのワイン漬け、これがまた   ビールに良く合うんですね。以来、すっかり虜になっていましたがどこにも売っていません。その日スーパーで見つけた皮むきをしないですむ洗いらっきょう。 これで作ってみようと買って帰りました。  早速試しに一個つまんでみると、うむ、この材料でいけそうだ。腕によりをかけて赤ワイン漬け事始。  自分で作ったレシピは次のようなものでした。 ・ らっきょうは水洗いする。これを熱湯消毒した広口のガラス瓶(梅酒用)に入れる。 ・ 塩、小匙1杯。砂糖とハチミツを大匙5杯ずつ 酢200cc、水100ccを鍋に入れて熱し、冷ましておく。  (いいかげんですが) ・ これを瓶に入れ、1000円程度のテーブルワイン〔赤〕をひたひたになるまでそそぐ。  (安いワインは渋みが少ない) ・ 以後、毎日ゆすってかき回しておく。  かなりいい加減だがこれぞ男の料理、2週間目に試食してみました。ビックリ!まいう~! あの居酒屋のそれと優るとも劣らずと自画自賛しながら, キッチンおたく笑い。   ヌ、へへへへへ        それから、毎日の晩酌のビールの友となり、熟成してムラサキに色づく前に減ってしまいました。一人で食べるのは気がひける、瓶につめて友人にも賞味してもらいましょう。  まだまだ、わがキッチンおたくの腕がうずきます。どうだ、これでもか、作ったぞ ジャンジャン、 見よ!この酒の肴を!  左から きゅうりのチーズあえ、マヨマヨ。くろしびかますの干物 それにらっきょうのワイン漬け。   あ~あ、うんめ~え。   そこに妻の声、「貴方、夕食よ」  出てきたおかずは小あじのマリネー、えっ、こりゃ酒の肴として最適だよ。ビールもう1本飲ろう。                              ...

物を切る前にはものさしを当てて計っておけ、切った後で計っても意味がないー実際に見たアラブの格言

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アラブ社会ではほめられるより罰せられることの方が多いので、失敗して罰せられるより何もしない方が良いという意識が強いのでしょうか、自分の責任の範囲でしか仕事をしません。例えば、オフィスが火事になったとしたら「火事だ!」と消防署には電話をしますが、そばにある消火器で消そうとはしません。 余計な事をして消し損ねたら責任を問われます。 アラブではたびたび  「It’s none of my Buisiness」  という言葉を耳にします。消火作業は消防士の仕事、手を出してはならないようです。         現に市街地で火事がありました。市の消防車が中々来ないので会社の消防隊が駆けつけ消火にあたりました。後から聞いた話では、その消防隊の責任者が市役所に呼び出され「余計なことをしてくれた、これは会社の仕事でない、これは我々の仕事だ」と感謝されるどころかクレームを付けられたそうです。もっとも、この話は会社のアラブ人スタッフたちの笑い話になっていましたが。  さはさりながら、この地では物事を行う前に、自分の責任の範囲で妥当なものであるかどうか、まず 、頭の中のものさしで 計っておかねばなりません。アラブの格言では、 物を切る前にはものさしを当てて計っておけ、切った後で計っても意味がない  と・・・        港で作業船に乗り込んでスタンバイしていた時でした。 乗客の一人が突然発作をおこし苦しみだしました。すぐに救急車で病院に運ばれましたが不幸にも亡くなったのです。  海上警備隊によって、船長以下船員と乗客全員が拘束されてしまいました。死亡した本人が船内で何かトラブルがあったのか、取り調べではまずそれを殺人事件として扱います。ところが私が 繰り返し質問を受けたのは彼が船内(海上)で亡くなったかどうかでした 。私は救急車まで付き添っていましたので、陸に上がった時にはまだ痙攣をしていたと証言しました。息をしていたのかと何度も問われるので、そのようだったと答えました。他の人も同じだったようです。  すぐに全員が釈放されました。係官は「これは私たちの仕事でない、彼は 陸上 で死んだのだから、これは市の警察の管轄だ」と理由を説明してくれました。  市の警察は、本人は救急車で運ばれ病院で死亡したのだから、病死と結論づけ、その後私たちにはなんらの事情聴取はありませんでした。         ...

たかがピッツァ されどピッツァパイ

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  私とピッツァパイの出会いは大学生の頃です。六本木のアントニオやニコラスなど当時の数少ない洒落たイタリア料理店で、キャンティのグラスを傾けながらガールフレンドに物知り顔で奨めたものです。 当時はお店の雰囲気が70%で、料理の味は30%だったと記憶しています。だから実を言うとピッツアはあまり好きな料理ではありませんでしたが、こうしたお店には女優さんもしばしば来るので、それがお目当てで足を運んだのも確かです。     近頃はあちこちにピッツァのデリバリー店が多く、新聞の折込広告ではどのお店も十数種類の写真が並んでいるので目移りしてしまいます。競争相手が多いので見栄えも味も研究し尽くしているのでしょう。それに注文してから到着するまでが早いですね。これもポイントを上げていますね。まだ熱いピッツァを頬張ると、どれもが美味しいのでビックリします。 世界各国からあらゆるチーズが輸入されて使われている。これが日本のピッツァが美味しい理由の一つと考えます。  ヨーロッパを何度か旅行しましたが、イタリアでは昼食は大概手軽なピッツァかスパゲッティで済ませました。これらは前菜なのでしょうか、いつもボーイが次のオーダーを待っています。しかし、胃袋の小さい日本人はこれ一品で事足ります。   しかし、前菜扱いのピッツァはがっかりするほど不味いのです。旅行先のそれは、こげこげで苦かったりベチャついていたりしてひどいものでした。ローマでは食べたかどうかも記憶すらありません。(これはあくまで私の舌の見解ですが・・・)  こんなお店しか行けなかった私が不運だったのか、イタリアに本当に美味しいピッツアがあるのか判りませんが、テレビでこれが本場の味だ!と、イタリアグルメ番組でさも美味そうな顔をするタレントさん、本当ですかァ?  意外だったのは、私が赴任していたサウジアラビアにあるピッツア専門店、アメリカのチェーン店ですが、これが美味しいのです。 トッピングはトマトとスライスオニオンとチーズだけの冷凍ものですが、 目の前の窯で焼き上げてくれます。 値段もグー、一枚160円(当時5リヤル)で手頃です。 焼き上がりの熱々を食べる、これが美味しい理由かもしれません。  そのうちに店の主人と仲良くなって、 昨晩の夕食で食べ残した魚(はた)のバタ焼きをフレークにして、バジルを刻みスライスオリーブを加えて持って...

漁をする者しか食べられない絶品の魚―スミヤキ

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  息子が釣りから帰 ってきました。今日は三浦半島でムツ漁だったとのこと。クーラーには通称スミヤキという クロシビカマス が7匹、私の顔がおもわずほころびます。なぜって? この魚は知る人ぞ知る漁師しか食べられない絶品だからです。他にもメダイやアカムツなんかありますが今回そんなものには興味がありません。早速、今夜はコイツの刺身を賞味する事にします。えっ、メダイもだって。まあいいでしょう。                  クロシビカマスー通称スミヤキ 、鋭い歯、とがった顎、なんと憎らしげな面構えです。イメージが悪いから買う人がいないので市場には出回らない。だが、真っ黒な皮の下は上品な白身です。惜しむらくは小骨が多い。だからスプーンですき身にして、きざみねぎとしょうがを加えタタキ風にします。うっまい!  釣り人や漁師さんしか食べられない絶品です。                          もう一品、三枚におろして、バタ焼きにしてみました。ちょっと身が柔らかすぎ、いまいちでしたね。 残りは全部干物にしました。 漁師さんはこれが一番だよ!と言っていたと息子から聞きました。 アブラが乗っていて本当に美味い。 冷凍保存も利くから、当分我が家のお宝なのです。  学名にするとホルマリン臭い理科室のイメージになりますが、一応ご紹介しておきましょう。 Promethichthys prometheus (Cuvier) スズキ目サバ亜目クロタチカマス科クロシビカマス属  別名スミヤキのほか、「ナワキリ」、「ガランチョ」。「カラス」「サビダチ」 ナ、なんだ、録でもない呼び名しかついていませんねえ。 中身で見てくださいよ。  ともかくも、美味い魚です。 今回は体長46cm~53cmでした。

気前の良さはすべての欠点を隠す-実際に見たアラブの格言

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  アラブのお宅に招かれると、過大な歓待を受けることがしばしばです。何かお礼の言葉を言いたくなりますね。私たちの習慣では、趣味が良い家具、調度品などを見るとついほめ言葉が出ます。アラブでは、このほめ言葉は「これが欲しい」ととられかねません。 さる人の話では豪華な食器戸棚を褒めたがために、翌日それが送られてきたとの事。その人はそれを上回るお礼をしなければならなかったので苦慮したそうです。  だから奥さんをほめたらどうなる事でしょう?大変な誤解を生むこととなりかねません。 したがって奥さんは料理が旨いとか、 奥さんに宜しくなど、私たちが普段口にするセリフはつつしんで、ご家族によろしく位にとどめたほうが良いと思います。  私も、さる会合の席でアラブ人がいつも右手に持っている数珠 (注) を「それは何だ?」と問うたところ、翌日、事務所に持ってきてくれました。 眼を白黒する私に彼は「これを貴方にあげるから、アッラーの名を毎日唱えなさい」と置いてゆきました。なにかお礼をしなければ、と戸惑う私に「貴方がイスラムに帰依する日を待っています」と笑顔で帰っていきました 。(これは別の目的でしたね) 注)  イスラムの数珠(スブハ)は33個の珠が結ばれています。 敬虔なイスラム教徒はそれを右手に持って、一つずつ廻しながらアッラーの名を唱えます。 アッラーの名は99あるので3回廻すわけです。 左手は不浄の手ですから使いません。 一方、仏教では数珠は左手に持って右手をそえて念仏を唱えます。キリスト教(カトリック)のロザリオは「主の祈り」と「聖母マリアに捧げる祈り」のためのもので10連の珠が5つ繋がっています。        物惜しみはアラブではご法度なのでしょう。だから、アラブ人は一見見栄坊に見えます。  結婚祝いには、息子の場合は葉巻、娘の場合はチョコレートを持ってきます。そのうちにアイツは葉巻1本だったが俺は2本、 アイツがそうするなら俺はハバナの高級品、チョコレートだけでなく高級なお菓子もつけてと、どんどんエスカレートしてしまい、私のデスクの中はそれらで一杯になってしまいました。    アラブの家庭は子沢山ですから、毎月のように結婚式があってもおかしくありません。これらのお祝いは給料の差には反映しませんから、たまったものではありません。そこで、結婚のお祝いは、その人の主催で朝食...

九州のキリシタン大名有馬晴信の終焉の地がなぜ甲斐の国(山梨県)なのか?

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   2012年5月6日、山梨県甲州市大和村でキリシタン大名の有馬晴信没後四百年記念祭が営まれた。晴信 謫居(たっきょ)の地の記念碑前では有馬家27代当主を始め、晴信ゆかりの人々や地元の人たち、カトリック関係者等約100人が参列しその業績と生涯を偲んだ。カトリック司祭による式典のあと、当時のイエズス会マテウス・デ・コウロスが1612年にローマに送った年報からドン・ジョアン(ヨハネ)有馬晴信の最期の様子(要約)が朗読され記念の植樹が行われた。  長い歴史を受け継いできた晴信ゆかりの人々ー 有馬家の当主、晴信の妻、菊亭ジュスタの子孫、天正遣欧少年使節の千々石ミゲル、中浦ジュリアンの子孫の方々ー が全国から集まり、終焉の地を代々守ってきた有賀(あるが)ご一家と一堂に会したのは初めてではなかろうか。   有賀家にはご先祖の善左衛門に晴信の娘(菊亭大納言の娘ジュスタとの間に生まれた女性)が嫁いだそうである。 その縁で1800年頃から有賀家には有馬丸岡藩からの使者が晴信の命日に裃袴の正装で献上品を携え参上し、同家に2~3日滞在したそうである。   註:謫居(たっきょ)とは罪によって自宅に引きこもったり遠くの土地に流されたりすること    今回行われた記念祭の場所は晴信謫居の地であり墓所ではない。その遺骸がどこに埋葬されたか定かでないからである。 マテウスの年報(翻訳)では、緞子を張った晴信の棺は妻のジュスタと家来、また幕府の検査役2名と従者がこれに従い、近くの敬虔な場所(お寺か墓場であろう)に運んで埋葬したとある。この時、雨が降っていたが故人に対する畏敬の念から誰も頭を覆うものはなかったー と記されている。  ちなみに記念祭でも式典の開始直後、短時間ではあったが突風と雷、激しい雨に見舞われた。これは単なる偶然の一致なのであろうか。  不思議に思うのは、九州のキリシタン大名であった有馬晴信の終焉の地がなぜ遠く離れた甲斐の国にあるのかである。そこで当時の歴史を振り返ってみるこ事としたい。 キリシタンとなった有馬晴信      有馬晴信(有馬修理太夫ともいう)は長崎島原の日野江(原)城主であった。キリシタン信者であった彼の父義直(アンドレス)の死去したあと、1580年(天正8年)晴信はヴァリアーノ神父により受洗した。霊名は当初プロタシオとしたが、のちにジョアン(ヨハネ)とあら...