九州のキリシタン大名有馬晴信の終焉の地がなぜ甲斐の国(山梨県)なのか?

  2012年5月6日、山梨県甲州市大和村でキリシタン大名の有馬晴信没後四百年記念祭が営まれた。晴信 謫居(たっきょ)の地の記念碑前では有馬家27代当主を始め、晴信ゆかりの人々や地元の人たち、カトリック関係者等約100人が参列しその業績と生涯を偲んだ。カトリック司祭による式典のあと、当時のイエズス会マテウス・デ・コウロスが1612年にローマに送った年報からドン・ジョアン(ヨハネ)有馬晴信の最期の様子(要約)が朗読され記念の植樹が行われた。


 長い歴史を受け継いできた晴信ゆかりの人々ー 有馬家の当主、晴信の妻、菊亭ジュスタの子孫、天正遣欧少年使節の千々石ミゲル、中浦ジュリアンの子孫の方々ー が全国から集まり、終焉の地を代々守ってきた有賀(あるが)ご一家と一堂に会したのは初めてではなかろうか。 

 有賀家にはご先祖の善左衛門に晴信の娘(菊亭大納言の娘ジュスタとの間に生まれた女性)が嫁いだそうである。 その縁で1800年頃から有賀家には有馬丸岡藩からの使者が晴信の命日に裃袴の正装で献上品を携え参上し、同家に2~3日滞在したそうである。 

 註:謫居(たっきょ)とは罪によって自宅に引きこもったり遠くの土地に流されたりすること 

 今回行われた記念祭の場所は晴信謫居の地であり墓所ではない。その遺骸がどこに埋葬されたか定かでないからである。 マテウスの年報(翻訳)では、緞子を張った晴信の棺は妻のジュスタと家来、また幕府の検査役2名と従者がこれに従い、近くの敬虔な場所(お寺か墓場であろう)に運んで埋葬したとある。この時、雨が降っていたが故人に対する畏敬の念から誰も頭を覆うものはなかったー と記されている。

 ちなみに記念祭でも式典の開始直後、短時間ではあったが突風と雷、激しい雨に見舞われた。これは単なる偶然の一致なのであろうか。

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 不思議に思うのは、九州のキリシタン大名であった有馬晴信の終焉の地がなぜ遠く離れた甲斐の国にあるのかである。そこで当時の歴史を振り返ってみるこ事としたい。



キリシタンとなった有馬晴信 
 
 有馬晴信(有馬修理太夫ともいう)は長崎島原の日野江(原)城主であった。キリシタン信者であった彼の父義直(アンドレス)の死去したあと、1580年(天正8年)晴信はヴァリアーノ神父により受洗した。霊名は当初プロタシオとしたが、のちにジョアン(ヨハネ)とあらためた。熱心なキリシタンとなった彼は、領内に日本最初のセミナリオの設立、南蛮貿易にも力を注いだ。

天正遣欧少年使節の派遣

 1582年(天正10年)には、同じキリシタン大名の大村純忠、大友宗麟と共にローマ教皇に伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンのいわゆる天正遣欧少年使節を派遣した。
                            
 私事ではあるがこの使節については少々の思い出がある。かれこれ20年前に私と妻がリスボンを訪れた時の事だ。7つの丘の町と呼ばれるこの街の一つの旧市街を見物していた。そのさなか、にわか雨にあい雨宿りのためあわてて近くの古びた教会に駆け込んだ。 

 聖堂でオルガンの練習曲を聴きながら濡れた服を乾かしていると「どこから来たの」と教会の案内人に声を掛けられた。日本からだと答えると、400年以上も前に日本の少年たちがここに1ヶ月も滞在していたよ、当時の絵があるからと見せてくれた。それはザビエルと禅宗僧侶との宗教討論の油絵であった。 

 描かれている大名、侍、それに僧侶の容貌や衣装、それに仕草さえもヨーロッパ風なので奇異な感じを受け、笑いを禁じえなかったが、ジェット機に乗って一っ飛びで来た我々に比べて、当時の困難な道のりと時間を費やしヨーロッパに到達した少年たちと、時こそ違え場所を同じくしていると思うと感無量であった。ゴアに発つ前のザビエルもここにいたそうである。この建物があの少年使節ゆかりのサン・ロッソ教会だったという事を初めて知った。

-話をもとに戻そうー

 使節団は1590年〔天正18年〕に長崎に帰着し、晴信にローマ法王からの贈り物を手渡した。 受領式は当時キリシタン禁制令を発していた秀吉を刺激しないように教会でこっそりと行われた。立派な青年となった使節団の4人から晴信は祭壇に跪き、恭しく教皇からの書翰、帽子、剣、キリストの教書を、神父からは十字架を押し戴いたという。数日後、同じく大村純忠の息子貴前に贈呈の式を行った。だが、大友宗麟亡きあとの息子の義統にはキリシタン迫害を行ったため手渡されなかったとのことである。

九州大名としての晴信の歴史的背景

 天正年間後半の九州は同じキリシタン大名の大友宗麟の勢力が衰え実権は竜造寺隆信に移っていた。1584年(天正12年)竜造寺勢は有馬領に侵攻、晴信は盟主と仰ぐ大友宗麟に助けを求めたが、既に宗麟は一兵も送る力はなかった。そこで、晴信は薩摩の島津義久に援助を求め、竜造寺を破った。それ以後、島津が勢いを増し大友に属していた土豪たちも次々と島津に下った。 九州の征服を虎視眈々と狙っていた豊臣秀吉は大友宗麟を援護するため〔実は島津を屈服させるため〕出陣したのは1587年(天正15年)であった。島津は降伏し九州は秀吉の勢力下となり諸大名の配置換えがおこなわれた。この中で有馬領は4万石が安堵された。 

秀吉のキリシタン追放令

 なぜ、秀吉はキリスト教の追放に走ったのであろうか。当時、日本でのキリスト教布教の最高責任者はカブエルであり、布教の中心の地は豊後にあった。カブエルの後任のコエリヨが責任者となるや、その中心は島原に移った。

 コエリヨが秀吉に謁見した際、大失言してしまった。島津を攻める時にポルトガルの武装船二艘を斡旋するとか、全九州のキリシタン大名を私の手で殿下のもとに集結させましょうと大口をたたいてしまったからである。それが権力者である秀吉の不興を買った。これに加えて、コエリヨが自慢げに案内した持ち舟の重武装のフスタ船を見た秀吉が、キリスト教を利用した日本侵略という危惧を抱いた事も制限令の動機となったと言われている。秀吉は天正15年キリシタン追放令を発した。

 大友宗麟亡きあと、有馬晴信は九州におけるキリシタンの中心人物であった。それ故、有馬領の扱いは過酷なものとなると思われたが、秀吉のキリシタン政策は甚だ寛容なものになってきた。追放されるべき神父、修道士70名を領内にかくまった晴信には何らお咎めはなかった。 朝鮮出兵の夢を描く秀吉はキリシタン大名の力を借りたかったからである。現に朝鮮出兵に際し有馬晴信は小西行長等6人の将と共に第一陣として渡った。松浦鎮信を除いたすべてがキリシタン大名であった。

晴信の悲劇ー岡本大八事件 

 後年、関が原の合戦で西軍に属していた晴信は最終的には東軍に味方した。晴信が東軍に寝返った、というのは当時では小早川秀秋の裏切りもさることながらあたりまえの事だったらしい。 ニ君につかえず、主君に忠義などが武士の美徳となるのはこれよりはるか後世のことだ。 藤堂高虎なども、武士たるもの七度主君を変えねばー と言い切っている。要するに、戦国の世では自分の才能を認めてくれる有能な主君に仕えることが武士のたしなみだった。現在よく使われている一生懸命という言葉は、もとは一所懸命であり、晴信も自分の一所(領地)を命がけで守ったのである。

 所領を安堵したものの、晴信は大きな事件に巻き込まれてしまう。きっかけは晴信がマカオに派遣した船がポルトガルのマードレ・デ・デウス号の船員と争いになり、数名が殺され積荷を強奪されたことにあった。晴信は家康の許可を得て長崎にやってきたデウス号を焼き払ってしまった。 

 晴信の所領への執着は更に続く。ポルトガル船焼き討ちを家康に賞賛された晴信は、この機会に鍋島領となっていた旧領を取り戻そうと画策した。そこで幕府の重臣本多正純の家臣であるキリシタンの岡本大八に、正純を通じて家康に働きかけるため、多額の運動資金を贈った。 大八は家康の側近である本多正純の祐筆(書記)で、家康にたいするポルトガル船焼き討ちの報告書を作成した。こういう立場にある大八は家康や幕府内部の諸事情を詳しく知る人物であったと想像される。

 晴信にたいし旧領回復を吹き込んだのは実は大八だったという。ポルトガル船焼き討ちの恩賞として家康がこれを与えるらしいと偽り、晴信はすっかり信じてしまった。同じキリシタンであったという思いもあったのかもしれない。しかし、贈った多額の金は旧領回復運動の資金として使われる事はまったくなかった。

 晴信はこれを幕府に訴えたが、大八は逆に晴信が長崎奉行の暗殺を画策しているーと讒訴した。このため、晴信は幕府の咎に触れ1612年(慶長17年)駿河の徳川忠長の家老、都留郡谷村の城主鳥居土佐守のもとに家来35名とともにお預けの身となった。一方、岡本大八も朱印状偽造が発覚し、駿府の安倍河原で火刑に処せられた。

甲斐の国、谷村への流刑と晴信の最後

 ドン・ジョアン有馬晴信は妻のジュスタと35名の家臣と共に追放の地、富士山の麓にある甲斐の国の谷村に向かった。そこで彼は岡本大八に被せられた無実の罪にたいし、汚名を晴らそうと幕府に弁明の書状を出した。これは受け入れられず処刑がきまった。

 刑の執行を命ぜられた谷村の鳥居土佐守と幕府の検使板倉周防守重宗は、150名の武装兵で幽閉された屋敷を取り囲み切腹の沙汰を申し付けた。晴信は極めて冷静にこれを受け止めた。しかし、敬虔なキリシタンの彼は、キリストの教義は自刃を禁じているからと家臣の手で介錯されることを望んだ。また、家臣たちが自分の死後に追い腹を切り殉死することを固く戒めた。 

 老臣梶左ヱ門の介錯で晴信の首は打ち落とされた。その時、
―妻のジュスタは有馬殿の脇にいた。(晴信の)首が落ちるとジュスタが直ちにそれを手にとって、愛情深く顔の前にもって来て暫くこれと向かいあっていた。その後、それを体のわきに置いて奥の部屋に引き下がり、声も立てず、泣き叫びもせずすすり泣きで涙を流しその悲しみや追放中のすべての苦しみを神に捧げ、それから頭髪を切った。共にいた僅かな女たち、他の家来も日本の風習にしたがって同様に髪を切った― 
(イエズス会士マテウス・デ・コウロスの1612年度年報(佐久間 正訳より要約)

 晴信はキリシタンとして、また戦国武将としての誇りを持って従容として死に殉じたのである。時に1612年[慶長17年]享年51歳であった。(一説には46歳とされている) 追放されてから45日のことであった。

 徳川家康が7幕府直轄地に対してキリシタン禁教令(伴天連追放之令)を発したのは1612日年(慶長17年)であったが、以後全国に拡大してキリシタンへの迫害が益々厳しくなり1614年には、多くの宣教師や高山右近をはじめとする信徒が国外に追放されたのである。

参考文献:

史跡 有馬晴信謫居跡 (案内)大和村教育委員会
イエズス会士マテウス・デ・コウロスの1612年度年報、ディエゴ・パチェコ著 九州キリシタン史研究6
ー有馬晴信」の悲劇と栄光」(佐久間 正著 翻訳)
有馬晴信考(1)-終焉地 清水紘一著 (キリシタン文化研究会会報)
島原半島キリシタン物語(22)有馬晴信の悲劇  結城了悟著
大友宗麟 白水 甲ニ著

 「有馬晴信 謫居の跡」へのアクセス 
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 所在地: 山梨県甲州市大和町初鹿野1924

 JR「甲斐大和」駅下車

 国道20号線を大月方面 徒歩約12分 「丸林橋西」 
 信号から畑に下る階段は危ないので、信号を10mほど下って左折するルートをとってください。
 車の場合, 500mほど先に道の駅がありますのでそこを利用してください。

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