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6月, 2008の投稿を表示しています
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  「アッ、へそが見えない!」風呂に入ろうと服を脱いだとたん、青くなりました。幸いにして鏡に映ったわがお腹の下にはオヘソが笑っています。 夕食後で胃袋が膨れているせいもありますが、自分のへそが見えなくなったら危険信号です。 まずい・・・いまをときめくメタボリック症候群のお仲間入りです。  私は子供の頃からG-パンを穿いていますから、根っからのジーンズ党です。しかし、わがウエストは20代のイケメン( プッ ! ワラワセルナ )の頃の73cmから、いまや86cmと大分お腹に貯金が貯まってしまいました。 メタボの検診はウェストサイズではなく腹囲ですから、これよりもっと太めに出てしまいますね。もうルーキーのメタボリアンです。     ヤバイ  昔から私の好みはリーバイズの紺のストレートジーンズ、だから今は505-03 W34 L34が定番です。心なしか、それもきつくなってきているようです。  これ以上、ウエストが太くなるとその上のサイズではダブダブです。愛用のジーンズが穿けなくなるのも悲しいですね。家族からはメタボ解消するにはもっと減量しなくてはとはっぱをかけられていますが、 きついですよ、好きなものを食べられないのは。   ガックリ・・・     肥っている人はジーンズが似合わないのでしょうか。   アメリカの中西部の農村や牧場のオジさんたち、例外なく肥っています。 だが、LLサイズのジーンズを穿いてピチッときめていますね。 ・・・ということは、 ジーンズはもともと彼らのためのもの、似合わないわけはありません。    しかし、町を歩くには若干のアクセサリーを身につけることが必要です。  まず、シャツは赤いチェック柄、はだけた毛むくじゃらの胸にきらりと光るペンダント。ベルトは飾りのついた幅広のもの。 先のとがった模様入りカントリーブーツ。 腕にはじゃらじゃらのブレスレット、髯も蓄えましょう。  ジーンズのベルトの上には突き出したお腹がありますが、こんなダンディな格好には遠慮したのか、まったく気になりません。 後ろ姿もでっけえ尻に、リーバイの革のタグが歩くたびに揺れています。 ジーンズの真髄を見せますネ!  それに脚が長い・・・。  ( 私のジーンズの裾揚げで、布がざっくり切られる時の悲しい気持ちを察して下さい。   トホホ・・・  ) ジーンズの膝のあたりがちょいと白くなっ

俺とアロハとハワイアン

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  アロハシャツはもともとハワイに移住した日系一世の方々が、日本から持参した和服を現地の気候にあわせてシャツに仕立て直したもの。これがアロハシャツの元祖です。ハワイではヴィンテージ物は菊や鳥など、わたし達が日常眼にする柄が高値で売られています。また、お寺や鳥居の柄は戦後日本に駐留したGIたちのおみやげに作られたものでしょうか。  ハワイアンが盛んなころの昭和30年代、アロハの柄はハイビスカス模様が染め抜かれた赤や青くらいで、普段着にする人はめったにいませんでした。最近、夏は若い人から年配の人までが、いろいろなデザインのアロハで歩く姿を見かけることも珍しくなくなりました。  学生時代、私はハワイアンバンドを組んでいました。アロハなんてバンドマンが着るものだと思っていましたから、卒業以来、着ることはありませんでした。すべてのストレスから解放された定年後のある日、かつての仲間から電話がかかってきました。  「暇になったろ、このままだとボケちゃうぜ、またハワイアンを始めないか。ウクレレを弾いていれば、将来手の中でくるみを転がさずにすむよ」  この一言で私がハワイアンを再開するきっかけとなったのです。     昔のウクレレを押入れから取り出し、弾いて見ました。  おっ! まだ、いけそうだ。頭ではコードを忘れていても、指が憶えていてくれました。  昔とった杵柄、皆でステージに立つのにはそう時間はかかりませんでした。  さて、次はステージ衣装が問題です。 日本ではメンバー全員が同じ柄のアロハシャツをそろえることは難しいことだとわかりました。 あつらえるのは高価で手がでません。 たまたま、知り合いがハワイに行くので、何でも良いから揃いを買ってきてもらうことにしました。  あっりゃ! Mサイズなのにだぶだぶ、アメリカンサイズは日本より一回りでかい。 まあ、身体をシャツに合わせましょう。  白いズボンと白い靴。これも夏のシーズンというのにあちこちの店をまわっても見つかりません。ようやく、イトーヨーカドーで買うことが出来ました。  数年前、ハワイに行く機会を得ました。 勿論、真っ先に買い物に行ったのは、レインズやヒロハッティなどのアロハシャツの店。グループの揃いのシャツもあれこれ選べます。  以来、私の持っているアロハシャツは個人で着る分をふくめ、もう10枚を越えました。 だが、せっかく

役に立たなくなった地球儀

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  アフリカが脚光を浴びています。5月、横浜市でアフリカ開発会議(TICAD)が開催されました。。アフリカ大陸には多数の独立国が存在しますが、その多くは自立できていません。国民は飢餓と内戦にあえいでいます。 政治的思惑をはずし純粋な気持ちでこれらの国を支援することは急務といえましょう。しかし、単なる援助の垂れ流しでは「新銀行東京」の二の舞になってしまいます。技術移転や民間の投資とともに彼らの活性化を引き出す事が大切でしょう。それはさておき・・・福田総理は40人の諸国の首脳と会談をしました。中にはアフリカのどこに位置しているのか判らない国もあります。そこで、居間に飾ってある地球儀でその国を探してみることにしました。   あれっ?そんな国はどこを探しても見つかりません。この地球儀は古いから記載されている国名が変わってしまったのです。コンゴ共和国はザイール、ジンバブエはローデシアになっています。よく見るとロシアもソヴィエト連邦、ミャンマーもビルマのままです。ユーゴスラビアという国もまだあります。ベルリンの壁も存在しているでしょう。  もう、この地球儀で地理をみることは出来ません。古い役立たずの地球義、表面のあちこちが劣化して亀裂もあります。 もう捨てるより仕方がない代物です。  今、私がこの地球儀を眺めているように宇宙飛行士たちもまた宇宙から地球を見ているでしょう。地球の表面にはサイクロンの被害や大地震の跡が生々しく見えると思います。アフリカの沙漠化はもうはっきりと見えるのかも知れません。自然環境はどんどん破壊されていくのが現状です。そのうち、この天体はもはや生物が住むに適さない無用の代物になって宇宙のごみ箱に捨てられる運命なのでしょうか。  私はそんな思いをこの古い地球儀に投影してみました。  役立たずになる前に全人類が協力してこの地球の自然を修復していかねばなりません。「私たちの地球」ではなく「地球に住む私たち」なのですから・・・。 まだ捨てないでおこう。  思い直した私はこの古い地球儀を居間の片隅に戻しました。

大気汚染の中に暮らした記録ークウェイトの油田火災

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 北極と南極の氷、世界の氷河が溶け始めた。地球温暖化がいたるところで進行している。増加するCO 2 や各種酸化物による地球環境の変化は海面の上昇、旱魃、巨大化するサイクロン、ハリケーン、台風をもたらし、これらの大災害のニュースは毎日のように新聞紙上を賑わしている。 思うに、この原因のほとんどが人類のエゴによるものだ。 かつて、アラブの一人の独裁者が自己の栄光を夢見て起した恐るべき環境破壊、油田の大火災もその一つだ。 私はそれを現実として目の前に見せつけられた。 私の人生の中で最も過酷な思い出の一つである。        ************  ここに一台の空気清浄器(エアクリーナー)がある。思えばもう18年間も使っている。古びてはいるが、まだ健在だ。「クリアベール」という(株)カンキョーの製品である。 当時、ある大手機械メーカーの技術者であった藤村靖之工学博士が喘息の息子のために独立して開発し製品化したものである。 親の愛情をこめたこのエアクリーナーは私にとっても凄まじい大気汚染の中の生活で、なくてはならない機器でもあった。そのエピソードなど当時の日記を元に書き綴ることとしたい。   1990年8月 、サダムフセイン大統領〔当時)に率いられたイラク軍のクウェイトへの侵攻が始まった。 私が勤めていた石油会社はクウェイトの国境近くのサウジアラビア領内のカフジという町にあり、アラビア湾の石油を採掘していた。 数日中にクウェイトはイラク軍に占領され、国境に近いこの町もいつ攻撃を受けるか不安の日々が続いていた。  会社は東京本社に対策本部を設けた。私も今までのアラビアの経験を買われそこに配属され、現地との対応に忙殺されていた。   1991年1月 、イラクと多国籍軍との湾岸戦争の火蓋が切られた。カフジの町にイラク軍の激しいロケット砲の攻撃が始まった。会社の施設にも着弾被害がでた。攻撃の合間をぬって住民たちは全員避難、この中には会社の日本人従業員48名もいた。その直後イラク軍はこの町へ侵攻してきた。間一髪の出来事であった。  多国籍軍の本格的な反攻が始まった。 イラク軍はクウェイトのブルガン油田の全油井に火を放ち、自国へ撤退していった。クウェイト油田火災の煙はそこから100キロも離れたこのカフジの町の上空まで広がった。  油田全体が炎に包まれ、黒煙は空を覆いつくした  同年