大気汚染の中に暮らした記録ークウェイトの油田火災

 北極と南極の氷、世界の氷河が溶け始めた。地球温暖化がいたるところで進行している。増加するCOや各種酸化物による地球環境の変化は海面の上昇、旱魃、巨大化するサイクロン、ハリケーン、台風をもたらし、これらの大災害のニュースは毎日のように新聞紙上を賑わしている。 思うに、この原因のほとんどが人類のエゴによるものだ。 かつて、アラブの一人の独裁者が自己の栄光を夢見て起した恐るべき環境破壊、油田の大火災もその一つだ。 私はそれを現実として目の前に見せつけられた。 私の人生の中で最も過酷な思い出の一つである。

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 ここに一台の空気清浄器(エアクリーナー)がある。思えばもう18年間も使っている。古びてはいるが、まだ健在だ。「クリアベール」という(株)カンキョーの製品である。 当時、ある大手機械メーカーの技術者であった藤村靖之工学博士が喘息の息子のために独立して開発し製品化したものである。 親の愛情をこめたこのエアクリーナーは私にとっても凄まじい大気汚染の中の生活で、なくてはならない機器でもあった。そのエピソードなど当時の日記を元に書き綴ることとしたい。


 1990年8月、サダムフセイン大統領〔当時)に率いられたイラク軍のクウェイトへの侵攻が始まった。 私が勤めていた石油会社はクウェイトの国境近くのサウジアラビア領内のカフジという町にあり、アラビア湾の石油を採掘していた。 数日中にクウェイトはイラク軍に占領され、国境に近いこの町もいつ攻撃を受けるか不安の日々が続いていた。

 会社は東京本社に対策本部を設けた。私も今までのアラビアの経験を買われそこに配属され、現地との対応に忙殺されていた。

 1991年1月、イラクと多国籍軍との湾岸戦争の火蓋が切られた。カフジの町にイラク軍の激しいロケット砲の攻撃が始まった。会社の施設にも着弾被害がでた。攻撃の合間をぬって住民たちは全員避難、この中には会社の日本人従業員48名もいた。その直後イラク軍はこの町へ侵攻してきた。間一髪の出来事であった。

 多国籍軍の本格的な反攻が始まった。 イラク軍はクウェイトのブルガン油田の全油井に火を放ち、自国へ撤退していった。クウェイト油田火災の煙はそこから100キロも離れたこのカフジの町の上空まで広がった。 


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油田全体が炎に包まれ、黒煙は空を覆いつくした

 同年3月、戦火はおさまり会社の施設復旧にむけて活動が開始された。先遣隊のあとを受けて4月21日、私も会社の命を受け現地に旅立った。

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4月21日 (日)

 サウジアラビアのリアド空港に降り立った。 手荷物にはこれからの生活にかかせないであろう空気清浄器「クリアベール」があった。 税関で係員に「これはなんだ!」ととがめられた。 機器の取り扱いの説明に苦慮したが、大気汚染のためのエアクリーナであり、これからカフジへ行くとの一言でOKが出た。 彼は油田火災の煙は遠く離れたこのリアドまで来るといっていた。(後年、この煙のすすは遠くエベレスト山頂でも観測されるなど地球規模に拡大した)

 国内線に乗り換えアラビア湾側のダハラン空港に着いた。エアポートからさらに車で1時間半、カフジまであと150Kmのアブ・ハドリアに来た時には今まで蒸し暑かった気温が急に下がったのを感じた。空は今までの白い霞から灰色に変わり、カフジの町に到着したときは鉛色となっていた。会社のゲートを通過する時は地獄の門をくぐるような気がしてならなかった。支給されていたマスクをつける。


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 当てがわれた部屋の壁にエアクリーナーをとりつける。ここの電圧は240Vだから、100Vにするための小型変圧器も調達した。       



 各オフィスを挨拶まわり。 どこの机の上にもマスク。皆、浮かない顔だ。 油臭い外に出る。 また、マスクだ。

4月22日 (月)

 仕事を終えて部屋にもどる。ワイシャツの白い生地には点々と茶色のシミが着いている。オイルミスト(タール)だ。洗濯機に放り込む。 ズボンはクリーニングに出さねばならないなと思いながら、前日の挨拶回りで着た背広をよく見ると、これもシミだらけだ。                       


4月23日 (火) 

 日本から大学の環境汚染測定チームが到着。 空はあいかわらず鉛色で暗い。 駐車している車の全てが黒いオイルミストで汚れている。 アラブ従業員たちの白い民族衣装(ディスダーシャ)にも点々と茶色のシミ。 ここの環境の悪さは一目瞭然だ。


4月24日 (水) 

 部屋のエアクリーナーの集塵紙(フィルター)は既に真っ黒に汚れている。これでは部屋でもマスクが必要か。でも、クリーナーから放出されるイオンで何となく救われるような気がする。


4月25日 (木)

 今日と明日は休日、イスラム暦の木、金は我々の暦の土、日にあたる。

 車でカフジの町に出てみる。湾岸戦では激戦地の一つだったから、方々の建物が焼け爛れていたり、壁には弾痕が無数についている。 空き地の地面には不発ロケット弾が突き刺さっているのが見える。パンクを警戒して道路にころがっているロケット弾の鋭利な破片に気をつけながら運転する。 マスクをつけての車の運転はやりづらいものだ。

 イラク軍によって故意に置かれた万年筆、人形、時計などブービートラップ(偽装爆弾)にも気を付けるよういわれていたが、道や瓦礫の中には無数の空薬きょうがあるだけで、そのようなものは見当たらなかった。(後日、地元の新聞には、これを拾って爆発し大怪我をした子供たちのニュースが紙面を埋めていた)

 そびえたつ町の給水塔だけは無傷で残っている。やはり、敵も生きるための水を確保しておきたかったのだろうか。

 塔の上の空は煙でおおわれている。ここで毎日暮らすのかと思うと、やりきれない気分だ。

画像 東京で見たCNNニュースでは海はどろどろに汚れ、油まみれの海鳥がしょんぼりとしている映像が流されていた。その地点を憶えていたので行ってみた。 






 いたるところにころがっているロケット弾の鋭利な破片 


 海にはオイルボールが浮いている。 波打ち際はオイルミストがぎらぎら光って、その上にススが浮かんでいる。海面にはそれが黒い縞模様となって、何本も潮にのって遠くまで流れている。 靴の底にもべったりと油が着いた。ニュース放映から3ヶ月たっているが汚いことには変わりない。海鳥の姿はまったく見えない。                 

4月26日(金) 

 オイルミストが付着して汚れた部屋の窓を洗う。洗剤では落ちないので、ディーゼル油をもらってくる。ようやく部屋から外の景色が見えるようになったが、空一面のどんよりとした雲のためさっぱりとした気になれない。 気温は23℃、例年より低い。

 オイルミストが点々とついたシャツを洗濯する。 駄目だ!落ちない。そういえば、会う人々が皆シミのついたシャツを着ていたことに気がついた。洗っても落ちないから2~3枚だけを使いまわす訳だ。 私は新品のシャツを何枚も無駄にしてしまっていた。ズボンもだ。(後日、しみだらけの背広上下とズボンがクリーニングから戻ってきた)


 こんな状況でも会社の敷地にあるゴルフ場でプレーをする人がいる。マスクをかけてプレーするのだがスコアはともかくも、毎日の重い気分を一掃するには、これしかないよとその人は言っていた。


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4月27日(土) 
 大学の大気汚染測定チームに部屋のエアクリーナーの汚れを見てもらう。附着しているゴミは一般の埃ではなくカーボンとのことである。 ええっ!肺ガンのもとになる物質じゃないか!居合わせた皆は顔を見合わせた。 現在、個人のエアクリーナーはこの1台だけだから汚染状況を隣の部屋と比較するため、引き続きデータをとることにした。
 今日まで、いくつマスクを新しく変えたのだろう。くず籠の中を見る。やるせなくなって数えるのをやめた。

4月30日(火)

 各部屋の粉塵の測定では、エアクリーナーのお蔭か私の部屋は一番低い数値がでた。 タバコを吸う人の部屋の数値が一番悪かった。二重汚染である。大気汚染は人体に影響するかもしれないからもっとデータが必要だ。明日、もう一度計る由。 クリーナーの効果をたしかめるため、24時間だけ止めておくこととした。                              

 オイルミストが附着した車の窓を軽油でふく。 たちまち布が真っ黒。毎日の仕事だ。

 誰かが、「ここには白い猫がいない」 と言っていたが、その通りだ。うす汚れたノラネコばかり目に付く。可哀相だがマスクが付けられない猫たちは、こんな汚れた空気のもとでは長く生きられないかも知れない。

5月 1日 (水) 

 部屋の中の粉塵テスト、クリーナーを止めたためか前日よりかなり悪い結果がでた。引き続き、クリーナーを動かした状態の数値を測定をすることにした。(その後、このクリーナーが効果的との判断で日本に多数の注文を出した。私が東京を出るとき、こんな程度の機器では追いつかないよ、といわれたが持ってきてよかった)</div
 独身寮のセントラルエアコンの空気吸入口にもフィルターをかけたが、数日で異様な音。タール状のどろどろの汚れで目詰まりしキャビテーションを起したためだ。 こうまでしても、まだ汚染物質は部屋まで侵入してくる。 部屋のエアコンの吹き出し口もタオルでふさぐ。 暑いが仕方がない。 エアクリーナーだけが頼りだ。 明日、扇風機を買ってこよう。

 大気汚染の測定の数値は風の向きなどでその日によって違うが、調査団の教授によると、かつての日本のコンビナートの公害に比べ、NOXも硫黄酸化物も少ないという。ほっとしたものの、素人の目ではここの環境はあまりにも悪く見える。高度成長期の日本の公害のひどさには改めて考えさせられた。

 今日も昼間から薄暗く、憂鬱だ。 息苦しい、肺が真っ黒になっているかもしれない。


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昼だというのに、あたりの風景は暗闇でつつまれ、街灯も点灯している。写真の左側がクウェイトの方向

5月 2日 (木) 
 休日だが仕事が待っている。海上作業の安全をたしかめるためヘリコプターで調査に向う。浮遊機雷があるかもしれないからだ。海上には落ちてきたオイルミストが帯状になって流れている。季節がら、海面に漂っている海藻やその茶色の花粉がこれにからまって出来た長い黒い堆積物があちこちに浮かんでいる。 上空は油のもやで視界が悪い。ヘリはそれに突っ込んで行く。途端、機内が油くさくなる。ヘリポートに戻った。しかし、地表もくさい空気が鼻をくすぐる。マスクをかける。息苦しい。

5月22日 (水) 

 砂嵐の季節が始まる。オイルミストやすすに加えて砂の襲来だ。 視界は200メートルまで落ち込んだ朝だ。10時、表は更に暗くなって、車はライトをつけて走っている。昼ごろ、白っぽい太陽がぼんやりと頭の上に見えた。まだ、太陽は地球を照らしてくれているのだな。そう思うとほっとした。

5月24日 (金) 
 空には火災の煙がかかっているが、太陽はなんとか顔を出している。しかし、潮の加減か今日の海はかなりきれいだ。今日は休日、赴任してから初めて釣りに出てみた。 マスクをかけての釣りだ。ストレス解消のためには、やはりレジャーも必要だ。 海岸を歩くとゴムぞうりに原油がべっとり着いて気持ち悪い。環境の悪化で魚もいなくなったかと思ったが、しばらくしてクロダイが釣れた。刺身にして食べたが油くさい海を思い出し、ちっとも美味くなかった。 釣具の油よごれがひどい。 釣り糸などは使い物にならない。ため息が出る。

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 以上が1991年4月に赴任して最初の一ヶ月間の日記を抜粋しそれに加筆したものである。 油田火災の煙は南風が吹くと、クウェイト側に流れるので、久々の晴れた日となるが、このあとも同じような気候が何ヶ月も続いた。カフジの空にようやく美しいアラビアの空に戻ったのは油田火災がおさまった同年の11月であった。 7ヶ月もひどい生活が続いたわけだ。
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 油田の火災がおさまり、きれいな空をとりもどしたカフジ(同年11月)


 1998年に私がアラビアを去るまでの7年間、このエアクリーナー(クリアベール)は、独身寮の私の部屋の壁にかかって静かに動いていた。大気汚染がおさまってからは、フィルターには黒いカーボンに変わって、薄茶色の細かい砂が附着するようになった。帰任する時、この古びたエアクリーナーを捨てるに忍びなく持ち帰った。大気汚染の影響で心配していた私の肺の機能も、健康診断の結果、異常はなかった。

 現在、このクリーナーは東京の我が家の寝室で働いてくれている。フィルターの交換の際、灰色のハウスダストが一杯附着しているところを見ると、まだまだ使えそうである。 


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終わりに

 ここに挙げたサダム・フセインの環境破壊の影響は、一年後には全世界に希釈して消えてしまった。 これはあたかも、母なる地球が悪事を働いた息子を一生懸命かばってくれたようにも思える。 しかし、人類という不肖の子供たちはこの母の愛に報いず心を入れ替えるどころか、益々母親を苦しめているのが現状だ。

 大災害の頻発、見かねた母ガイアはついにお仕置きを始めたのだろうか。

 洞爺湖サミットが開かれる。地球温暖化ガス排出防止については、過去何回も議論されてきた事であるが、各国の利害が先行して、その対策の実施は遅々として進んでいない。 

 アラブの格言に次のようなものがある。 
 「言葉は雲、行動は雨」
雲が空を覆っても、雨が大地を潤さなければ、草木は枯れてしまう。

 願わくば、サミットでは全人類が心をあわせてこの美しい地球を守るという結果が欲しいものだ。 地球は病んでいる。大手術が必要となっている。私自身が出来る事は省エネと緑化ぐらいしかないが、もう長々とした議論よりもトライ&エラーでもよい、現在考え得る防止対策の即実施が先決だと考える。 

 何ら対策をとらずその結果、「この失態を謙虚に反省し、深く陳謝します。議論をつくして原因の究明に努力します」と深々と頭を下げてみせる場面など見たくも聞きたくもない。 

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