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ギリシャ旅行で買ったお土産

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   我が家の暖炉の壁にはギリシャの皿、その炉の中段には古代戦士のブロンズの置物が飾られている。ギリシャを旅行したのはかれこれ三十年も前だ.。それ以来ここから動かしていないから埃をかぶったままだ。はて、これをいくらで買ったのだろうか?寒い夜の日、暖炉の炎を肴にウィスキーのグラスをかたむけながら、ふと当時のギリシャ観光旅行を思いだした。 お皿はどこかのスーベニールショップで。 どこのお店にもあるお土産品であるいかにもギリシャ風で気に入った。 ギリシャの古代戦士のブロンズ像はエーゲ海の船旅の途中立ち寄ったミコノス島の民芸品で求めたものだ。 ここでは若い夫婦がブロンズの作品を手掛けている。 かなりの値段だったと思う。 値引きを要求したが「私たちの芸術品には値段の駆け引きをしない」と突っぱねられた。 しかし、そこらのスーベニールには見られない重厚な作品だったからそのまま買った。 旅行先のお土産品は帰ってからしまい込んでしまうのが常だが、このいかにも地中海らしいものはいまでも私の目を楽しませてくれるのである。 ギリシャの観光では真っ先に行く所、パルテノン。 サントリーニ島の夕暮れ。 エーゲ海クルーズの目玉の一つ。 ミケーネ文明、ミノタウラスの物語を思い出す。  あちこちのレストランでいろいろな地中海料理を堪能するのも旅の醍醐味の一つだ。  オデッセイの現実と神々が入り混じった古代の旅、今夜はそんな夢をみるのだろうか・・・。

ヤヤッ!かにが縦に歩いている

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   長い海岸線が続くサウジアラビアのアル・カフジの町。夕方の海辺を散歩していると何百匹ものカニが群れを成して歩いています。私が近づくと一斉に縦に走り出します。まるで都市マラソンのスタートのようです。私たちは幼い時からカニは横に歩くのを見て育ってきました。しかしこんな大群のカニが縦にあるくとは、まるでアラビアンナイトのような不思議な世界ですね。  40度を越す暑さのアラビアの昼間はさすがに一匹も姿は見えません。しかし長い浜辺にはいくつもの砂の塔が作られています。ここが彼らのねぐらなのです。このカニ、前から見ると可愛いのですが、その甲羅には髑髏を思わせる紋様が刻まれています。だから人呼んでガイコツガニ。私はこの不気味なカニに恐怖をおぼえさせられた事がありました。  ある日の夕方、私は仕事を終えて夕食の食卓の一品を飾ろうとキス釣りに興じていました。その日はさっぱり当たりがなく夕暮れになってようやく一匹、二匹と釣れはじめました。あたりが薄暗くなったころ、波打ち際に引き寄せた獲物に何者かが襲いかかりました。執拗にしがみついているそれはあのカニでした。身を屈めそれをふるい落とそうとした私の眼にうつったのは砂浜の無防備の私の裸足を狙ってキシキシと音を立てて偲びよる幾百のカニの大群でした。  いささか恐怖を感じた私は棒切れを拾って何匹かをたたきつぶしました。すると予期せぬ事がおこりました。たたきつぶしたカニになんとその仲間が寄ってたかってしゃぶりつき、ハサミで肉を切り取り食べ始めたのです。カニの死骸は見るまにばらばらになって消滅してゆきました。  薄暗い中にうごめくガイコツガニの大群にはこの世のあらゆる悪行が収斂して、それがこの暗闇の中に一挙に吹きだし襲いかかってくるように見えました。私はそのおぞましさに背筋が寒くなり一目散に逃げ出しました。 たすけて~え! はやくパトカー来て~エ

駒場公園の旧前田家本邸ー国の重要文化財を見学して

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 「東京文化財ウィーク」は東京都教育委員会が毎年文化の日に開催するイベントで今年は10月26日ー11月4日まで開催されました。都内の文化材を一斉に公開する事業と文化財を巡る講座の事業の中で、駒場公園内の旧前田家本邸を訪ねてみました。旧前田家本邸は加賀藩主の16代当主,、前田利為侯爵(1885-1942)の住居だった英国風の洋館とそれに付随する外国からの賓客に日本文化を伝える和館や迎賓館として昭和3年から5年にかけて完成しました。 太平洋戦争後はアメリカ駐留軍に接収されましたが、解除後は国と東京都の分割所有となり和館は目黒区、洋館は東京都が管理し現在敷地は東京都目黒区立駒場公園となっています。  公・候・伯・士・男、の爵位の華族の人々たちが暮らしていた邸宅で現在そのままの形で残されているものは珍しく旧前田本邸は貴重な文化財として平成25年に国の重要文化財(建築物)に指定されました。  11月4日、今日は和館の見学からはじめました。これにはガイドさんの説明なしではわかりません。時間に合わせて到着しました。すでに20人もの見学者が集まっています。  和館は主に外国からの賓客のおもてなしの為に建てられた二階建でその様式は日本文化を継承しています。裏側の庭園側から見ると銀閣寺を連想します。なるほど、この棟や茶室庭園の設計者には京都の建築に造詣の深い人々が関わっていたからです。  一階は主室と次の間は大名家の面影を残す広大な構えです。杉戸の絵は美しい四季図が描かれており、以前の本郷邸で使用されていたものが移されました。二階は数寄屋風の意匠をこらした軽やかな造りとなっています。  和館の左側にある茶室は裏千家の代表的茶室の「又隠(ゆういん)」を模したものです。今日は一般の茶会に貸し出しているために見学できませんでした。  庭園は山水の造りで四季の趣を凝らしています。賓客が一年の間いつ来ても楽しめるようにしています。                          和室の見学のあと洋館に向かいます。左に歩を進めると英国に来たかと思われる車寄せのある尖塔がそびえる重厚な建物が目に飛び込んできます。ここでもガイドさんの説明が必要です。  洋館なのに靴を脱いで広々とした玄関を上がると、深緑の邪紋石の柱、チーク材の梁、シャンデリアが眼につきます。  中でも興味を引いたのは階段下の...

徳川家康の居城ー駿府城事件簿

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   10月、ようやく暑さも過ぎた10月9日 静岡県の駿府城公園を訪れる機会を得た。駿府城はいわずと知れた徳川家康の居城だったところだ。彼は大御所としてここから江戸の幕府を牛耳っていた。 かつて今川氏の領土であった駿府には家康は人質として19歳までこの駿府で暮らしていた。幼少期から12年間の思い出は晩年の家康には忘れがたい土地であったのだろう。家康が暮らしたこの城は彼の天下統一の場として重要な意味を持つ。しかし、今回訪れたこの城には、過去いろいろな出来事が起こっていたことが分かった。今回これを事件簿としてまとめることとした。 事件簿その一:秀吉に乗っ取られた駿府城  天正14年(1586年)駿河を領地とした家康は、三年後に天守をはじめに二の丸を完成させた。守りが固く攻めるに難しい駿府城、天下人の野望を抱く豊臣秀吉はこれに目を付けた。小田原の北条攻めの際、駿河に進軍した秀吉に一旦は彼に臣下の礼をとっていた家康はこの城を明け渡さずるを得なかった。北条氏滅亡のあと家康は江戸に転封されることとなる。  秀吉は自分の好みに合わせて駿府城を金色の装飾にリフォームしたようだ。現在発掘調査が行われている天守跡からは金箔付きの瓦が出土した。秀吉は大坂城と同じくこの城を己の権力を誇示したかったに違いない。   ところが、家康も黙ってはいなかった。関ヶ原の戦いのあと、慶長11年(1606年)駿河の町の充実とともに隠居所として新しい城の建築をはじめた。秀吉の時代のものは破壊された。発掘中の現場から姿を現した石垣が秀吉時代、家康時代で組み方が違ったことが判明した。  慶長15年(1610年)慶長12年の火災で焼失した天守も再建された。この周囲は多門櫓でかこまれ、天守は際立つように6層の高さ、その大きさも江戸城の天守に比べ1.5倍の大きさだったとされる。この城は二代将軍秀忠の江戸城も凌ぐ大御所の権威を見せつける象徴であった。 事件簿その二:家康の直臣には多数のキリシタン達がいた  織田信長の時代に全盛を極めたキリシタン、大友、有馬などのキリシタン大名、武士たちも帰依するものが多かった。秀吉の禁教令から始まった切支丹弾圧は家康の時代には厳しさを増した。徳川家康の直臣にも多くのキリシタンがいた。慶長17年(1612年)駿府の武士に対するキリシタン宗門改めを命じ、駿府の直臣キリシタン56名が...

未曾有の超大型台風がやってきた

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  2019年10月12日夜から13日未明にかけて観測史上初めての超大型台風19号が東日本を直撃しました。強風と大雨で37河川の堤防が決壊し周辺に大規模な浸水と人的被害をもたらしました。東京の我が家でもTVなどの情報を元に事前に対策を行いました。  台風前日、まずは気が付く限りの事、ベランダや玄関の飛ばされやすいものを家の中に取り込みました。そうそう、ガレージに置いてあるダストボックスや箒なども、屋上の植栽の鉢もまとめてしっかり固定しました。窓ガラスは大丈夫だな・・・。  停電もあり得るので、ライトやロウソク、スマホの充電、備蓄食料の点検や卓上ガスコンロとガス・カセットの準備 冷蔵庫の機能を強に、ポリタンクに水、風呂にも残り湯をそのままにしました。頭の中はかつての東日本大震災の時のことで一杯です。その時はなにも準備していませんでしたから・・・。  12日午後9時過ぎ、部屋の壁にインテリアとして飾ってある気圧計、普段はめったに見る事はありませんが、台風の接近でテレビの情報と交互ににらめっこ。6時には1200hPaはあった気圧は台風の接近とともにぐんぐん下がり、9時30分頃には976hPaまでになりました。初めて見る数値です。  台風の中心気圧は925hPaですからもっと下がると思いましたが、10時過ぎには1000hPaにもどりました。写真は14日に撮影したもので通常の1225hPa(右の黒い針)を指しています。左の金色の針は12日夜の数値976hPaの気圧の時にセットしたものです。  やれやれ、対策準備は無駄に終わりましたが片づけをしています。地震・雷・火事・親爺の教訓に台風を加えてこれからも災害対策を忘れないでおこうと思います。 被災地の方々これからの生活が大変でしょうが、頑張ってください。 また、亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。