春の運河ーまるでウクライナの国旗のようです。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ - 3月 02, 2022 春の気配が感じられる頃になりました。東京の運河の散歩道には黄色の菜の花が咲き始め、青い水面と重なって平和を愛するウクライナの国旗のように彩られています。ロシアの武力侵攻でウクライナの都市は破壊されつつあり国民は恐怖に苛まれています。どうか早く戦火が収まって、この岸辺のカモメのように人々にゆったりとした平和な生活が訪れるように祈っています.。 No war! ウクライナに平和を リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
都内の秋を散策しました - 11月 30, 2022 晩秋、都内でもようやく木々の葉も色ずきはじめました。 このところ散歩をして い ませんでしたが、家にこもりっぱなしでは健康的に良くない。 そこで 11月中旬の雨あがりの日 、目黒の自然事育園を訪れました。 園内には武蔵野の木立の面影が残っており路傍には野草や池や湿地帯に自生する水草が見られます。 ここにもメダカなどの淡水魚やカルガモまどの野鳥の姿も散見されました。 雨上がりの散歩道、落ち葉を踏みながら歩くのは都内の固いコンクリートで舗装された道から開放されて、スニーカーの底にも自然の伊吹きが伝わってくるようで気持ちが良いものです。 まだ園内の紅葉の時期は早すぎるので12月になったらもう一度来てみよう。 そう言う思いで1時間半の散策を終えて、満ち足りた気分で帰途につきました。 コンクリートで舗装された道から開放 雨上がりの散歩道、落ち葉を踏みながら歩くのは都内の硬いコンクリートで舗装された道から開放されて、スニーカーの底にも自然の伊吹きが伝わってくるようで気持ちが良いものです。 まだ紅葉の時期は早すぎるので12月に入ったらもう一度来てみよう、そういう思いで1時間半の散策を終え帰途につきました 雨上がりの散歩道、落ち葉を踏みながら歩くのは都内のコンクリートで舗装された道から開放されて、スニーカーの底にも自然の伊吹きが伝わってくるようで気持ちが良いものです。 1時間半の散策を終えて、満ち足りた気分で帰途につきました。 れて、スニーカーの底にも自然の伊吹きが伝わってくるようで気持ちが良いものです。 1時間半の散策を終えて、満ち足りた気分で帰途につきました。 は今から400年前の豪族の館があったところで江戸時代は大名の下屋敷、時代は白金御用地で、一般には開放されていなかったため豊かな自然が残されていす。昭和24年に天然記念物と史跡として指定れ一般的に公開されるようになりした 雨上がりの 雨上がりの散歩道、落ち葉を踏みながら歩くのは都内のコンクリートで舗装された道から開放されて、スニーカーの底にも自然の伊吹きが伝わってくるようで気持ちが良いものです。 1時間半の散策を終えて、満ち足りた気分で帰途につきました。、落ち葉を踏みながら歩くのは都内のコンクリートで舗装された道から開放されて、スニーカーの底にも自然の伊吹 続きを読む
園芸で育ったハーブ類、 料理に役立っています - 4月 30, 2022 我が家の園芸はもう30年も続いています。バラなどの花の他、オクラ、キュウリ、トマトなど季節の野菜類の収穫を試みてきました。この中で、年中料理に使っているのはハーブ類です。 長年の料理の友は、月桂樹「ローリエ」(写真上)とローズマリー(写真下)です。山椒はどうも我が家では相性が悪く苗木を買ってきても1年で枯れてしまいます。 毎年六月頃スーパーでは根が付いたままのバジルが売られていますので、このうち半分はを鉢で栽培します。夏が過ぎ花が咲いて葉も固くなってきますがまだまだ使えます。10月頃には枯れてしまい、これでお終い。だから乾燥バジルの瓶をスーパーで探すことになりますが・・・。毎年、他の植物の鉢にいつのまにか生えてくる居候のシソは植え替えると大きく育ちます。これも時がたてば、葉が小さくなって固くなりますので、そのまま放っておけば翌年にまた芽が出て再会することになります。ミントは・・・すっかり忘れられていました。どこにあるのだろう?ようやくコニファーの鉢の下でしょんぼりしているのをみつけました。 収穫したハーブはキッチンの壁にかけておくと、手軽に料理に仕えるので便利です。 続きを読む
残っていた戦時中の防空電球 - 8月 08, 2006 押入れを整理していたら、変わった電球を見つけました。 私の頭の中の古い大脳皮質がすぐ反応、太平洋戦争中の 防空電球 とよばれていたものです。 それには、こう記されています。 *** マツダ製 100V 10W * 東部防空司令部認定済 三~四畳半畳用 * 使用前ニハ必ズ包紙ノ注意書ヲ御読ミ下サイ * 残念ながら、包装紙はないので、その内容はわかりません。 戦争末期の昭和19年末、B29の爆撃が日本各地に行われていました。その頃、私はまだ5歳の子供でした。 「トントン・トンカラリと隣組、格子をあければ顔なじみ、回してちょうだい回覧板・・・」 当時、童謡で唄っていたこの隣組から回覧板がまわってきたのをまだ覚えています。 戦闘帽をかぶったおじさんが[空襲警報が発令されたらすぐに家の電気を消して、1つだけ防空燈を付けてください。周りには黒い布をかけるように」 そう母に言っていたのを横で姉とともに聞いていたと記憶しています。父は出征中でした。 「空襲警報、発令、〇〇機の敵機が帝都上空に・・・・・・・」 夜、ラジオからこんな放送が流れてきます。母は居間にぶらさがっている電球を、空襲警報のサイレンが鳴るたびに急いで防空電球にとりかえ、電灯の傘に黒い布をかけていました。 私の通っていた幼稚園では、防空頭巾を被りしゃがみこんで防空演習ばかりです。 「両ひざを、おなかにつけて目と耳を押さえ、下腹に力をいれなさい。さもないと、爆風でお腹が破裂してしまいますよ。」 と先生。ここの天井にも防空電球が黒い布に巻かれ、だらりと下がっていました。 空襲が激化し、いよいよ私達も疎開することになりました。疎開先、ここでは空襲もなさそうでしたから、煌々と電灯がついていたので、ほっとしたものです。 終戦後、私達一家は焼け野原の東京に戻ってきました。奇跡的にわが家は焼け残っていました。 もう空襲はありません。だが、物資の不足の時代、父が復員し、妹が昭和23年に生まれてからも、なおも防空電球はわが家では使われていました。風呂場の脱衣所や便所の手洗いの一点にほのかな光を与えていたのを覚えています。 懐かしさもあって、私はこの古い電球をソケットに付けスウィッチを入れてみました。途端、あの暗い時代の光が灯りました。半世紀以上も眠っていた防空電球。まだ健在でした。 もう 続きを読む
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