散歩がてら ぶらり旧東海道ー品川宿~鈴ヶ森

  JR品川駅から5分、新八つ山橋に着きます。ここが江戸時代の東海道五十三次の一番宿、品川宿の入り口です。コロナ禍でお餅みたいにふっくら仕上がってしまった身体をなんとかしなくては、と旧東海道をぶらり散歩することにしました。巣ごもりから飛び出して羽ばたいてみるか・・・。感染防止のためマスクを二重にして人通りの少ない道を歩きます。

品川宿八山橋.JPG
品川宿広重.jpg

 品川宿の歴史は慶長6年(1601年)にさかのぼります。現在の東京の京急線、北品川駅から青物横丁駅まで京に上る旅人の旅籠屋や西国の大名の参勤交代などで賑わいました。1843年ころの記録では旅籠屋92軒、水茶屋64軒でにぎわい「北の吉原、南の品川」と称されるほど一大遊興地となっていました。

 目黒川にかかる橋を境に北品川宿、南品川宿に分かれます。幕末には鳥羽伏見の戦いで敗れた新選組の隊士たちが逗留していました。(病気の沖田総司は飯田橋のお姉さんの所で療養していたそうです)

 さて、品川宿を入るとすぐ左手に碑が立っています。これは三代将軍徳川家光が東海寺を訪れた際に沢庵和尚と禅問答をした所と言われています。ここは今、商店街となっていますが当時の本陣跡やお寺などが残っています。一寸訪ねて見ましょう。京急新馬場駅の附近は幕府公用の馬が100頭も用意されていたところで重要な街道でした。

現在旧東海道.JPG
 青物横丁に差し掛かりました。ここは江戸時代に農民が野菜(青物)を持ち寄って市場を開いたことに由来します。

 更に歩を進めると自動車試験場として知られている鮫洲、この地名の言われは、鎌倉時代に品川沖で漁をしていた漁師が鮫に襲われ、危うく一命を取り留めました。しかし懐にいれた観音像が消えており、その後、死んだ鮫の腹からその観音像が出てきました。これを聞いた時の執権北条時頼は観音様のご加護があったと寺領を与えこれを安置したという話に由来しているそうです。

東大井運河.JPG

 昔、ここ一帯は海に面していました。東大井二丁目付近の左手の小道に入ると運河に出ます。ここで、ちょっと一休みしましょう。汗ばんだ身体に潮風が気持ち良い。持ってきたお茶で喉を潤します。

龍馬像.JPG

 立会川附近、ここは土佐藩の下屋敷があった所です。幕末の黒船来航で藩は急遽、砲台を屋敷内に築きました。当時江戸に出てきていた坂本龍馬も警備隊に加わっていたので借り出されたのでしょう。龍馬は土佐の父親に「黒船がきたぜよ」と手紙を書き送っています。龍馬の像が京急立会川駅にあるので早速ご挨拶して行きましょう。旧東海道の本道をそれて右手の道に向かいます。懐に手を入れて立っているお馴染みのポーズの龍馬像は高知市から贈られたそうです。コロナ対策でマスクをかけています。当時は黒船来航で大騒ぎでしたが、今度はコロナで一騒動、「コロナ禍が来たぜよ」とでも呟いているのでしょうか。

浜川砲台.JPG

 再び旧東海道に戻ります。立会川にかかる涙(泪)橋、鈴ヶ森に向かう罪人にとってはこの世との別れの場であり、ひそかに来た家族や身内の者がこの橋の上で涙を流したことから、この名が付けられたそうです。今の橋は昭和9年に掛けられ名称も浜川橋となっています。

鈴ヶ森刑場.JPG 

まもなく鈴ヶ森刑場跡に着きました。それまで高輪大木戸にあった処刑場は慶安4年(1651年)に移設されました。ここでは丸橋忠弥や八百屋お七などが処刑されました。明治3年(1870年)に廃止され、その後、昭和29年(1954年)になって東京都の史跡に指定されました。 
 
 ここで旧東海道は国道15号に合流します。昔、人々や駕籠で賑わった所はいまや自動車の騒音に包まれています。お正月には箱根駅伝の選手たちが走ります。昔の飛脚とどちらが早いのでしょうか。そんな思いで国道15号沿い近くの京急大森海岸駅に向かいました。

 品川駅から約6kmの散歩でした。



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