秀吉の大軍に開城した小田原城を訪ねて
小田原城は明治の初めに城内の建築物はほとんど取り壊されたが、1960年(昭和35年)天守が再建された。 だが、鉄筋コンクリート製で当時の姿を再現したものではない。 1971年と1997年(昭和46年、平成9年)には常盤木門(ときわぎもん)と銅門(あかがねもん) 2009年(平成21年)には馬出門を復元、2016年(平成28年)になって、天守の耐震工事と修復が完了した。 外観は天守が聳える古城の佇まいだが中は資料館となっている。
小田原城は文亀元年(1501年)北条早雲が大森藤頼から奪い、その後北条氏五代に渡る居城として上杉謙信や武田信玄との防戦を経て戦国の世に君臨した。
しかし、1590年(天正18年)天下統一の旗印をかかげる豊臣秀吉が数十万の大軍を率い隠居の北条氏政と当主の氏直の小田原城を包囲。 いわゆる小田原合戦である。 北条方は和議か抗戦か延々と議論を重ねたがなかなか決まらず三か月も経ってようやく開城と決まった。 いわゆる「小田原評定」の古事となっている。
天守の展望台からは秀吉が築いた一夜城の石垣山が望見される。 築城には日数が相当かかったろうが周囲の樹々に遮られて見えない。 城の完成とともにその目隠しの樹々を一斉に切り倒したのだから、小田原方は城が一夜にして出現したと思うのは当然だったろう。 秀吉はここに妻女や茶人をよびよせ、毎晩のように宴会を催したというから城中はさらに驚愕したのだろう。 秀吉の「泣くまで待とうホトトギス・・・」の戦法である。
北条氏没落後は大久保、阿部、稲葉の各氏が城主に、さらに一度は改易された大久保氏が再び入封され明治にいたっている。 東海道の要箱根の関所は小田原藩大久保氏が幕府からあずかったものだ。
箱根関所の開閉は明け六ツから暮れ六ツ時(06:00~18:00)だったから、関所を挟む小田原宿と三島宿は旅人たちで多いに潤ったことだろう。 関所は「入り鉄砲に出女」を取り締まったが箱根の関所は出女だけが厳しい取り締まりを受けたという。 もちろん裏山から行き来する関所破りは見つかれば死罪に処せられた。
江戸の旅人たちが行き来した旧東海道、箱根の杉並木を歩いてみた。 今はスニーカーだが昔はワラジ。 でも足に伝わる土の柔らかさは歩行をこころ良く身体にひびいてくる。 元箱根に着いた・・・そろそろ昼飯時だな・・・。
暇人のつぶやき:
小田原城には晩年の二宮尊徳の肖像画があった。 「にのみやそんとく?誰なの」と若い人達に言われそうだが、昭和生まれならば誰でも知っている人物だ。 以前は各地の学校には薪を背負い本を開いて歩きながら勉強する少年の銅像が多く見られた。 その勉学にいそしむひたむきな姿に比べ、今時の若い人たちは薪の代わりにバッグを背負ってスマホ歩き。 なんたる違いよ
註: 二宮尊徳(1783~1856年)幼名は金次郎、江戸末期の農政家、経世家。 小田原藩に仕えた。
註: 二宮尊徳(1783~1856年)幼名は金次郎、江戸末期の農政家、経世家。 小田原藩に仕えた。
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