温泉の湯はさておき もう一つの伊豆修善寺を歩く
伊豆の修善寺といえば温泉、だが、お寺には訪れたととがない。そこで今回はお湯以外の観光スポットを散策してみた。この古刹以外にも歴史上の鎌倉幕府の遺物があることが分かった。昼下がり、修善寺に着いた。日帰りなので温泉でぬくぬくと過ごすわけにはいかない。 周りのスポットを観て歩くこととした。 駐車場から歩くこと10分「修禅寺」の境内についた
修禅寺の門前通り、やはり人出が多い。昔懐かしい射的やお面やかざぐるま等のおもちゃ、それに焼き鳥の香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
この古刹は曽洞宗の寺院で温泉街の中心に位置している。
元々は807年に空海が創建したものと伝えられ、鎌倉時代中期に空海の真言宗から禅宗の曽洞宗にかわったので、いままでの修善寺を改め修禅寺に変わったという。それ以後は地名は「修善寺」で、お寺は「修禅寺」となっているが、いずれも「しゅぜんじ}である。
元々は807年に空海が創建したものと伝えられ、鎌倉時代中期に空海の真言宗から禅宗の曽洞宗にかわったので、いままでの修善寺を改め修禅寺に変わったという。それ以後は地名は「修善寺」で、お寺は「修禅寺」となっているが、いずれも「しゅぜんじ}である。
参拝したあと境内をまわる。
羅漢さまか、ずらりならんだ石仏の和んだ表情が一体一体違うのがなんとなく微笑ましい。
しばらくは境内の静けさを感じ、禅の境地を垣間見ようと目を閉じてみた。
帰り際、禅僧の一団とすれ違った。いずれも柔和な表情で会釈をして通り過ぎる。こちらもおもわず頭を下げた。
羅漢さまか、ずらりならんだ石仏の和んだ表情が一体一体違うのがなんとなく微笑ましい。
しばらくは境内の静けさを感じ、禅の境地を垣間見ようと目を閉じてみた。
帰り際、禅僧の一団とすれ違った。いずれも柔和な表情で会釈をして通り過ぎる。こちらもおもわず頭を下げた。
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お寺を出て朱塗りの橋を渡る。ここからは人出がまばら、さらに歩を進めると人っ子一人もいない山道となる。蝉の声しきり。
ここには鎌倉幕府二代目将軍、源頼家の墓がある。さらに道を進むと指月院、これは北条政子が建立したものである。
源頼朝の長男の頼家は父の没後18歳で鎌倉幕府二代将軍となった。しかし、台頭する北条氏との抗争に敗れわずか6年で将軍職を追われ、ここ修善寺に幽閉された。その後、1204年(元久元年)になって祖父の北条時政に暗殺された。
頼家の墓のそばにある指月院は、彼の母の北条政子がわが子を偲んで建立したものである。
鎌倉幕府はこのあと実朝が三代将軍を継ぐが、甥の公暁に暗殺され源氏の鎌倉幕府はとだえ、実権は北条氏に移る。
時折の樹の枯ずれの音を聞きながら、はるか昔の歴史を思い浮かべながら修善寺を後にした。。
源頼朝の長男の頼家は父の没後18歳で鎌倉幕府二代将軍となった。しかし、台頭する北条氏との抗争に敗れわずか6年で将軍職を追われ、ここ修善寺に幽閉された。その後、1204年(元久元年)になって祖父の北条時政に暗殺された。
頼家の墓のそばにある指月院は、彼の母の北条政子がわが子を偲んで建立したものである。
鎌倉幕府はこのあと実朝が三代将軍を継ぐが、甥の公暁に暗殺され源氏の鎌倉幕府はとだえ、実権は北条氏に移る。
時折の樹の枯ずれの音を聞きながら、はるか昔の歴史を思い浮かべながら修善寺を後にした。。
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