2018年07月15日 上野公園、もう一つのスポットをぶらり歩き―不忍の池、旧岩崎邸庭園
上野といえば、まず頭に浮かぶのは動物園のパンダ、そして、博物館、美術館。昼食は上野精養軒、最後に西郷サンの銅像を見上げて帰宅するのが常かと思います。今日はそれらの場所をちょいとはずれて、季節柄、不忍池の蓮の花、更に脚をのばして三菱財閥の旧岩崎邸を見学しました。
上野公園(上野恩賜公園)の脇にある不忍池は周囲2km11万平方mの池です。池の中央には琵琶湖の竹生島に見立てた弁天島があります。
7月5日、JR上野駅の不忍口から約5分、まず不忍の池へ。その中央に位置する弁天島から蓮の花を愛でることとしました。残念 まだ蓮が見頃とは言えません。一面におい茂っている葉の間からポツンと花が見えるだけでした。見頃は7月中旬から8月半ば、それも午前中のなるべく早い時間が美しい蓮の花を鑑賞できるとのことです。
いささかがっかりですが、またの機会にして不忍通りに足を進めます。次のお目当ては旧岩崎邸庭園です。
不忍池から約10分、この岩崎邸は岩崎弥太郎の長男、三菱財閥第三代社長の久彌氏が本邸として明治29年(1896年)に日本の西欧建築の父ともいわれる英国人建築家のジョサイア・コンドル氏の設計で建てられました。現存する洋館と撞球室(ビリヤード室)、また和館大広間、袖塀、さらに平成11年には煉瓦塀、敷地全体と実測図が国の重要文化財に指定されました。
残念なことに建物正面は修復中でシートが被さっていて見えません。(写真はパンフレットより) それでも玄関を入ると見事なレトロ調の装飾、ガイドさんが丁寧に設明してくれました。建築、内装など歴史の説明なしでは見逃した箇所がいくつもあったでしょう。
17世紀の英国ジャコビアン様式の装飾は随所に見られます。1階のベランダには英国」ミントン社製のタイルが敷き詰められています。 これを作るため2倍弱のタイル材料が使用されたといいます。模様を際立たせるためタイルの間がピッタリとくっ付いていて目地がないのが特徴で、繊細な日本の職人の技術が偲ばれます。
撞球室は別棟の木造建築でスイスの山小屋風を取り入れ、洋館から地下通路でつながっています。
和館は書院造りで当時は550坪あったといいますが、現在は大広間1棟が残っています。広間の欄間は三菱のシンボルがアレンジされています。
約45分間のガイドさんの説明が終わり、小雨ふる庭園に出てみました。
庭園は和洋折衷の芝庭園で、日本の近代庭園様式の初期の形を残しています。前に見学した高輪の岩崎別邸の開東閣のバラに彩られた英国式庭園とは大分異なる感じでした。
12時を過ぎ昼時、アメヤ横丁方面に歩いてゆきました。平日とはいえ、外国人観光客を含め人通りでいっぱいです。この人込みをを抜けて目についた海鮮料理屋で食事、海の幸を堪能し帰路につきました。
暇人のつぶやき
以前、谷中銀座を訪れた時、三崎坂の交差点のへび道という道路を歩きました。ここは江戸時代は藍染川が流れていて、不忍池に注いでいたそうです。不忍池からはさらに不忍川として、墨田川に注いでいたといわれています。へび道、名のとおりくねくねと曲がっており、かつての川の面影が想像できます。なるほど、川の跡だったんですね。
江戸時代の不忍池―広重
残念なことに建物正面は修復中でシートが被さっていて見えません。(写真はパンフレットより) それでも玄関を入ると見事なレトロ調の装飾、ガイドさんが丁寧に設明してくれました。建築、内装など歴史の説明なしでは見逃した箇所がいくつもあったでしょう。
17世紀の英国ジャコビアン様式の装飾は随所に見られます。1階のベランダには英国」ミントン社製のタイルが敷き詰められています。 これを作るため2倍弱のタイル材料が使用されたといいます。模様を際立たせるためタイルの間がピッタリとくっ付いていて目地がないのが特徴で、繊細な日本の職人の技術が偲ばれます。
和館は書院造りで当時は550坪あったといいますが、現在は大広間1棟が残っています。広間の欄間は三菱のシンボルがアレンジされています。
約45分間のガイドさんの説明が終わり、小雨ふる庭園に出てみました。
庭園は和洋折衷の芝庭園で、日本の近代庭園様式の初期の形を残しています。前に見学した高輪の岩崎別邸の開東閣のバラに彩られた英国式庭園とは大分異なる感じでした。
12時を過ぎ昼時、アメヤ横丁方面に歩いてゆきました。平日とはいえ、外国人観光客を含め人通りでいっぱいです。この人込みをを抜けて目についた海鮮料理屋で食事、海の幸を堪能し帰路につきました。
暇人のつぶやき
以前、谷中銀座を訪れた時、三崎坂の交差点のへび道という道路を歩きました。ここは江戸時代は藍染川が流れていて、不忍池に注いでいたそうです。不忍池からはさらに不忍川として、墨田川に注いでいたといわれています。へび道、名のとおりくねくねと曲がっており、かつての川の面影が想像できます。なるほど、川の跡だったんですね。
江戸時代の不忍池―広重
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