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連日のこの暑さよ、太陽にかじくられた!

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  「かじくる」 とは山梨や静岡で、掻きむしる、引っ掻くの意味です。この夏、日本列島の連日の暑さはじりじりと肌に照り付ける太陽の熱に「かじくられた」感じです。本当に暑い!各地で熱中症で亡くなられた方々もいます。私も無理なことは控えて絶えず水分の補給を心がけていますが・・・。  今年の39℃、40℃の暑さ、私の若いころは30℃ちょっとがせいぜいで、こんな高い温度はありませんでした。もっともエアコンなんかない時代でしたから、それでも耐え難い暑さだったと記憶しています。    就職してからはサウジアラビアで長年勤務してきました。そこでは一年の大半が40度を超す暑さです。  ’’’                  「今、どこにいるの?」「砂漠の中で仕事だよ、やけどしそう50度を越しているかな、東京に帰ってビールが飲みたいよ」「東京は今35度よ、いやになっちゃうわ」   これはアラビアの砂漠の中で東京の妻とケータイでの会話です。この時は3時間程の作業で、戻るまで2リットル入りペットボトルを飲み干し,宿舎に戻った時にも水をがぶ飲みしたと記憶しています。   かれこれ35年も前のことですから、温暖化に伴い気温はさらに上昇の一途をたどっているでしょう。日本で40度Cになるとは考えられませんでした。  サウジの暑さは45度Cになっても湿気がありませんから、出た汗はすぐに乾いてしまい、日本のべたつく暑さではありません。水をガブガブ飲んでいれば耐えられます。 塩分? 腕の乾いた塩をなめていれば事足りるのかなあ? ’’’  日本人従業員は子供の夏休みに合わせて取るので、集中を避けるため順番をきめねばなりません。私にもようやく順番がまわってきたので東京に帰りましたが、蒸し蒸しした東京の夏はサウジのカラリとした酷暑の夏よりずっと暑いと思いました。   太陽にかじくられるような暑さ、温暖化の進行が目に見えるようですね。もっとも汗が目に入ってよくわかりませんが・・・。          カジクル(KAZIKL)これはトルコ語では串刺し公、トランシルバニア地方のワラキア王国のヴラド三世(1436-1476年)の呼び名です。KAZIは串刺しKLは公を意味します。1462年バルカン半島に進出したオスマン・トルコ軍は捕虜になった多数のトルコ兵が柱に串刺しにされた光景を見てあまりの残虐さに耐えかねて撤退し

2018年07月15日 上野公園、もう一つのスポットをぶらり歩き―不忍の池、旧岩崎邸庭園

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  上野といえば、まず頭に浮かぶのは動物園のパンダ、そして、博物館、美術館。昼食は上野精養軒、最後に西郷サンの銅像を見上げて帰宅するのが常かと思います。今日はそれらの場所をちょいとはずれて、季節柄、不忍池の蓮の花、更に脚をのばして三菱財閥の旧岩崎邸を見学しました。  上野公園(上野恩賜公園)の脇にある不忍池は周囲2km11万平方mの池です。池の中央には琵琶湖の竹生島に見立てた弁天島があります。  7月5日、JR上野駅の不忍口から約5分、まず不忍の池へ。その中央に位置する弁天島から蓮の花を愛でることとしました。残念 まだ蓮が見頃とは言えません。一面におい茂っている葉の間からポツンと花が見えるだけでした。見頃は7月中旬から8月半ば、それも午前中のなるべく早い時間が美しい蓮の花を鑑賞できるとのことです。   いささかがっかりですが、またの機会にして不忍通りに足を進めます。次のお目当ては旧岩崎邸庭園です。  不忍池から約10分、この岩崎邸は岩崎弥太郎の長男、三菱財閥第三代社長の久彌氏が本邸として明治29年(1896年)に日本の西欧建築の父ともいわれる英国人建築家のジョサイア・コンドル氏の設計で建てられました。現存する洋館と撞球室(ビリヤード室)、また和館大広間、袖塀、さらに平成11年には煉瓦塀、敷地全体と実測図が国の重要文化財に指定されました。  残念なことに建物正面は修復中でシートが被さっていて見えません。(写真はパンフレットより) それでも玄関を入ると見事なレトロ調の装飾、ガイドさんが丁寧に設明してくれました。建築、内装など歴史の説明なしでは見逃した箇所がいくつもあったでしょう。  17世紀の英国ジャコビアン様式の装飾は随所に見られます。1階のベランダには英国」ミントン社製のタイルが敷き詰められています。 これを作るため2倍弱のタイル材料が使用されたといいます。模様を際立たせるためタイルの間がピッタリとくっ付いていて目地がないのが特徴で、繊細な日本の職人の技術が偲ばれます。   撞球室は別棟の木造建築でスイスの山小屋風を取り入れ、洋館から地下通路でつながっています。  和館は書院造りで当時は550坪あったといいますが、現在は大広間1棟が残っています。広間の欄間は三菱のシンボルがアレンジされています。  約45分間のガイドさんの説明が終わり、小雨ふる庭園に出てみました。

世界遺産になった潜伏キリシタンの里ー黒島と平戸を訪ねて

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 「サンタ・マリア様はどこ?」聖堂に案内された時、一人の婦人がプティジャン神父に言った。「私どもの胸(心)はあなたさまの胸と同じです」 神父は驚いた。「日本にキリシタンの子孫が残っていたとは・・・」1865年完成したばかりの長崎大浦天主堂の日本のキリスト教信徒発見の有名なエピソードである。ザビエルの来日以来、布教を続けたキリスト教は弾圧され多くの信徒が拷問の末殉教したその歴史は私たちの知る所である。今回、国連教育科学文化機関(ユネスコ)によって2018年6月30日、長崎と天草地方の12の潜伏キリシタンの歴史を伝える宗教文化として世界遺産に登録された。    禁教下で日本の伝統的宗教の中に身をひそめ自分の信仰を守り続けたキリシタン達、「その信仰の始まり」「伝統の形成」「その維持」そして「新たな局面の到来で潜伏の終わりを迎えた」ーこの宗教文化が世界遺産として評価されたのである。    名をひそめていた日本のキリスト教の信徒達は 潜伏 キリシタン、 隠れ キリシタンと呼び名があるが、前者は明治になってカトリックに復帰した者、後者は先祖から受け継いだ独自のキリストの教えをまだ守り抜いている人々である。  今回、新たに登録された長崎と天草の12の潜伏キリシタン世界遺産の構成資産のうち、黒島の集落、平戸の聖地と集落をこれに先立つ5月に訪れた。  黒島のキリシタン  佐世保からフェリーで50分、黒島に着いた。 島は西海国立公園の中にある周囲14キロメートルの小島で昔は平戸松浦藩に属していた。現在、島の約8割の住民がキリスト教解禁後カトリックに復帰した、いわゆる潜伏キリシタンの子孫である。島の平地は仏教徒、険しい山地にはキリシタンの集落がある。彼らは島の仏教寺院から黙認されその信仰を続けたと言われる。  キリスト教の解禁後、この島に1878年に最初の木造天主堂ができた。その後、1897年にジョセフ・F・マルマン神父が主任司祭となり1902年になってフランスからの募金や信者の拠出金で現在のレンガ造りの天主堂が完成した。土地柄、祭壇の前の床は一面に有田焼のタイルが敷き詰められている。  マルマン神父は天主堂の近くのカトリック墓地に葬られている。周りには信徒たちの十字架の墓碑が立ち並び、まるでヨーロッパの墓地にいるようである。 平戸島の聖地と集落  春日集落の段々畑はちょうど麦の刈入れが