日本の工業化の先鋒、世界遺産の富岡製糸場を訪ねて

  世界遺産の富岡製糸場を訪れる機会を得た。10月、台風一過後のこの日は混雑もなくゆっくりと見学できた。製糸場は明治維新政府の財源として生糸の輸出を奨励するため建設された。大量生産の機械の導入と徹底した品質管理によって日本のシルクは国際的な評判をとった。製糸場の門の前に立った時、広大な赤レンガの建物群は明治の人々の気骨を示すものと心に響くものがあった。


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明治五年(1872年)、戊辰戦争の匂いも消えてまもないこの時期、このような西洋式の建物が建造されたのは驚きだ。 フランス人の技師たちの多大な支援もさることながら、日本の瓦職人が焼いた赤レンガを用いた「木骨煉瓦造り」は145年後もその威容をたもっている。ガイドさんの話では先の東北大震災の折も被害もなかったそうだ。煉瓦積みの目地には日本古来のしっくいを使ったので大きな揺れのテンションを吸収した。もしセメントだったら亀裂が生じたであろうとのことである。

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繰糸場は、日本には無かった工法の「トラス構造」建物の内部は中央に柱がなく広い空間になっており、採光のガラス窓、屋根には蒸気抜きの小屋根もある。これが西洋の文明に接して間もない明治の初めに建築されたとは驚きである。当初はフランス式繰糸機300基が稼働していたが、現在、ずらりと並んでいる自動繰糸機は明治時代でなく昭和41年以降のニッサンHR型のものである。この製糸場が115年の長い間使用されてきたかを物語っている。

工場の災害対策には日本も最初の避雷針が設置された。また、医療所はこれも企業における最初のものとされる。

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 東置繭所は事務所、作業所、二階は乾燥繭の置き場.。明治五年の建設である。木材の骨組みに煉瓦の壁は「木骨煉瓦造り」という工法だ。 煉瓦は瓦職人が見様見真似で焼いたものだから色が一様ではない。煉瓦積みには目地に日本古来の漆喰、礎石には砂岩が用いられた。 建築にはメートル法が用いられ、日本の尺貫法の技術で育った職人たちの苦労が偲ばれる。

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日本人工女に糸取りの技術を教えるため雇われたフランス人女性教師の住居。当時応募した工女の横田 英が明治40年に執筆した「富岡日記」にはこんな一文が記されている。
 
 「一同送りの人々に付き添われまして富岡製糸工場の御前門にまいりましたときは、実は夢かと思います程驚きました。生まれまして煉瓦造りの建物などまれに錦絵位でみるばかり・・・」まったく西洋の建物を見るなんて驚きだったと推測される。

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 ブリュナ館は指導者として雇われたフランス人 ポール・ブリュナが家族と暮らしていた320坪もある住居である。 のちには宿舎や女工たちに読み書きや裁縫をおしえる学校として利用された。

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 まだまだ見るところがたくさんあるが、時間が迫ってきた。世界遺産の富岡製糸場は生きる歴史として末永く残ってゆくだろう。 そういう思いでバスの駐車場に向かった。

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