北朝鮮からミサイルがとんできたら、その時どうするのか?

  政府は4月19日宮城県大崎市の全国瞬時警報システム(Jアラート)のミサイル着弾の誤放送を受けて21日、都道府県の危機管理担当者を集め北朝鮮の弾道ミサイルが日本の領域内に着弾時に国民がとるべき行動について説明会を開きました。日経新聞4月22日)えっ、 たしか72年前にも同じ事がおこなわれていたのでは・・・記憶をたどってみました。

                           
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 北朝鮮から飛来するミサイルの1~2発は90%以上の確率で迎撃することは可能だそうです。だが、それ以上が同時に飛来した場合になるとなんらかの被害が出るのではないかと報道されています。

 今回の政府のミサイル着弾時にとるべき国民の行動は
1. 頑丈な建物や地下街などに避難
2. 近くに適当な建物がない場合は物陰に身を隠すか地面に伏せて頭部を守る。
3. 屋内にいる場合は窓から離れるか、窓のない部屋に移動するなど

 私が子供の頃は太平洋戦争の末期でした。「空襲警報発令、〇〇機の敵機が帝都上空に・・・」 夜、ラジオからこんな放送が流れてきます。母は居間にぶら下がっている電球を空襲警報のサイレンが鳴るたびに急いで防空電球にとりかえ、電灯の傘に黒い布をかけていました。 隣組の防空演習のバケツリレーで火を消し止める作業を子供たちは眺めていました。

 真夜中に空襲警報、防空頭巾をかぶって大人の手に引かれ近くの防空壕へ急ぎます。夜空に幾条もの探照灯の光の束が交差しています。爆撃するB29の機影を探しているのです。防空壕では眼と耳を押さえ膝をお腹につけ前かがみに座ります。こうすれば爆弾が落ちても爆風で鼓膜が破れたり、眼が飛び出たり、お腹が破裂しないと教わったからです。

 こんな程度の避難策しかありませんでした。近代兵器はもっと殺傷能力が大きいでしょう。今回の政府の指針は当時のやり方とあまり変わっていないのではと心配になっています。シリア爆撃の被害では建物はすべて破壊されています。やはり、自治体で住宅街の公園などあちこちに防空壕(シェルター)の設置を進めたらちょっとはマシなのかな・・・と思います。 でも、ミサイル警報が出されてから7分以内に着弾の恐れがあるようですから退避は間に合わないかもしれませんね。

 日本は専守防衛、だから相手のミサイル基地をたたくことはできません。だから迫りくる火の粉は手で払うだけしかできません。万一に備え終活を決めておくしかないのでしょうか? 


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 今でも残っている太平洋戦争当時の防空壕跡。また使わなくてはならないのかな・・・。 

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 私がサウジアラビアのカフジという町で勤務していた1980年代後半はイラン・イラク戦争の真っただ中でした。イラクのバスラでは激しい戦闘が行われておりその爆裂音は250kmも離れたここサウジの東海岸のカフジにも毎日のように響いていました。ある日、イランのシルクワームというミサイルがこともあろうに隣国のクウェイトの砂漠に着弾したのです。戦場からこんな離れた場所に(カフジからは50km先でしたが)、どこに着弾するか分からない、ここも危ないのではと皆が噂していました。 

 湾岸戦争(1991年1月)、前年8月にクウェイトに侵攻していたイラク軍は、国境を越えてサウジのカフジ地区にロケット弾攻撃を加え、会社の施設やこの町も大きな被害を被りました。 こうした事態に備えあらかじめ大口径のパイプラインをシェルターとして地中に埋めて置いたので、日本人従業員たちはその中に避難しました。イラク軍地上部隊が進撃を開始する直前、間一髪全員が車で脱出できました。

イラクから化学兵器のサリンなどを搭載したスカッドミサイルが飛んでくるのではないかと、会社では12000個の防毒マスクを用意しました。管理が十分でなかったのかそれは一部の従業員や町の人々にことごとく持ち去られ日本人従業員には支給されませんでした。そのためパニックに襲われた人もいました。


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戦争が終わった1991年4月、私は復旧のため、現地に赴任しました。道路沿いに残っている電柱やガードレールのいたるところにロケット砲の破片が貫通した穴が開いていたり、また道路にも鋭利な破片が散乱していました。不発弾も地面に突き刺さっていました。もし、シェルターがなかったら死傷者もでていたかもしれない。と背筋がぞっとしたものです。

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