白い城と黒い城―対照をなす姫路城と岡山城の威容を見た!

 白鷺城といわれる世界文化遺産の姫路城、青空にそびえる白い天守閣は見る人々を圧倒する美しさである。 一方、漆黒の岡山城は烏城と呼ばれ川面に映えるその姿もまた優美なもので歴史の深さを感じさせる。今回の旅では対称をなすこの二つの城を訪れた。ちなみに白い城は幕府の親藩、黒い城は外様の大名の居城という。そういえば、当初黒い外観の大坂城は徳川の時世では白く塗り替えられた。


姫路城

 昭和から始まり、平成に完成した大修理工事、世界文化遺産に登録された姫路城は現在築城時そのままの白い美しい姿を人々の目を楽しませている。その天守閣は「まるで白鷺が舞い立つようだ」とまたの名を白鷺城と言われるようになった。

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 1346年に赤松氏が姫路城を築いたのち、1545年になって黒田氏が姫路を預かることになった。黒田官兵衛はここで生まれた。毛利攻めの際、羽柴秀吉が入城しここを拠点とした。関ヶ原の戦いのあと池田輝政が城主になり、1609年には大改築されて5重7階の連立天守が完成した。その後、姫路城は徳川幕府の譜代大名の本多、松平、榊原、酒井などの諸将が入封していたが明治の廃城令にも存続が許され、その天守は1931年、旧国宝に指定された。太平洋戦争の空襲にも消失を免れ1993年にはユネスコの世界文化遺産の登録、2009年の天守の大修理を経て今日の姿となった。

 姫路城を訪れた日はちょうど休日にあたり、大勢の観光客でごった返していた。大手門から歩き出す。かなたに聳える天守閣はまだまだこれからだ。扇の勾配の石垣が見事!

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 大天守まではあまりの混雑で六層の階段では何度も入場制限があり、なかなか行き着けない。それでも列を乱さず整然と順番を待つ人々は日本ならではのものではなかろうか。もちろん、外人観光客もそれにならっているが・・・。 














 姫路城は多くの人の注目をあつめているが、大阪夏の陣で大坂城から脱出した家康の孫千姫が本多忠刻に再嫁し、この城で10年過ごしたというエピソードにはあまり関心がないようだ。忠刻の死後千姫は江戸にもどったが、姫路城の西の丸には千姫が休息所としていた化粧櫓と侍女たちの居間であった百閒廊下が現存している。
 大天守閣の混雑から避けてここに足を延ばした。当時は極彩色の装飾がほどこされていたが、今は板張りの部屋である。それでも見物客が少ないのでゆっくり鑑賞する事が出来た。


岡山城

 織田信長が築いた安土城は日本における本格的な城である。これにならって築城されたのが岡山城だ。宇喜多氏がここの領主となって17年後の天正18年(1590年)から城つくりを開始して秀吉の朝鮮出兵から帰ったあと慶長2年(1597年)に完成した。三層六階の構造で、外壁には黒漆が塗られているので、太陽光に照らされるとまるで烏の濡れ羽のようであるため「烏城」の別名で呼ばれていた。

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 そばを流れる旭川を城と城下町の防御を固めるための堀の代わりとして、流路を城の手前で大きく東方へ曲げた。ここに隣接する岡山後楽園は水戸の偕楽園、金沢の兼六園、とともに優れた継承をもつ日本三名園の一つである。

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(宇喜多秀家の甲冑(複製)

 関ヶ原の戦いのあと、宇喜多秀家が八丈島に流され、その後釜には小早川秀秋が入城した。小早川家の断絶の後、池田忠続をはじめとしてその歴代が明治に至るまでこの地を治めた。明治2年この城は明治政府の所有となったが、建物のすべてを維持してゆくことができず、天守、月見櫓などが残された。昭和の初めには国宝に指定されたが、昭和20年大空襲で天守と石山門を焼失した。

 天守閣は1966年(昭和41年)に再建されたコンクリート造りではあるが、外観は昔のままを再現している。現存している石垣のほとんどは昔のままで、特に天守閣の取り巻野面積みは日本で近代の城つくりが始まった安土桃山時代 のものとして貴重な文化遺産である。

暇人のつぶやき

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 黒い城、なるほど、烏城(うじょう)とはよくいったものだ、城の木立にはからすが群れをなしていたのも偶然とは思えなかった。

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