奥の細道の終着地は江戸ではなく岐阜の大垣だった
松尾芭蕉が江戸から奥州各地を回りこの旅を終えたのは出発した江戸ではなく実は岐阜の大垣だった。ここが「奥の細道」の終着地だったといういろいろな史跡が残っている。なぜ、芭蕉は奥の細道の旅をこの地で終えたのか、この度、大垣を訪れた機にこれを調べて見ることにした。松尾芭蕉は元禄2年(1689年)弟子の河合曾良とともに江戸の深川を出発し日光街道を北上していった。白河関ー松島ー平泉ー出羽三山ー鶴岡などを経て酒田から南下して金沢、敦賀を周り大垣でこの旅を終えた。全行程約2400キロを走破したことになる。
なぜ芭蕉は奥の細道の旅の終着地を江戸としなかったのか。理由はいたって簡単だった。芭蕉はこの旅に先立ってこの計画を知人に手紙にしたためていたからだ。 それには、「これから美濃の国へ行く」と書かれている。
芭蕉が忍者の里、伊賀で生まれたことから、実は彼は幕府の隠密で奥の細道の旅は伊達、前田など諸大名の領地の動静を俳句に事よせて探るためだった・・・とのなんちゃって話も言われているようだ。
たしかに旅のルートはそれに沿ってはいるがそれは小説作家に任せて置こう。 芭蕉は旅で遭遇した大自然を詠み、それを知己の俳人が多い大垣に手土産として持って行ったのだろう。のざらし紀行の貞享元年(1684年)、また元禄元年(1688年)にも訪れている大垣をあらかじめ終着地と決めていたのだ。
芭蕉が各地で詠んだ句は多数あるが、なかでも誰もが知っている名句は
「夏草や 兵どもが 夢のあと」
平泉
「松島や、ああ松島や 松島や」
松島 仙台
「閑さや 岩にしみ入る 蝉の聲」
出羽 立石寺
「五月雨を集めて早し最上川」
大和田 山形
「荒波や 佐渡によこたふ 天の川」
出雲岬 新潟
そして奥の細道の最後に詠んだ句は
「蛤の ふたみにわかれ 行秋ぞ」
大垣
今回訪れた大垣市には奥の細道むすびの地記念館がある。平成24年に市制30周年を記念して芭蕉と親交のあった俳人谷木因邸跡地に建てられた。ここで芭蕉の奥の細道の行程やエピソードなどを200インチの3D大画面で知ることができた。
芭蕉がこの地で詠んだ句 「蛤の ふたみにわかれ 行秋ぞ」を刻んだ蛤塚が建てられている船町川湊は、水門川で大垣と桑名間の物資や人の輸送の主要水路として栄えた地であった。
元禄2年秋、奥の細道の旅を終えた芭蕉は弟子の谷木因らと共に、ここから舟で桑名へ下ったという。
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