近江路の城を歩くーその2 豊臣秀次の八幡山城跡と近江商人の町

 安土城跡を後にしてJR安土駅から近江八幡駅に移動する。今晩は駅前のホテルに1泊。八幡山城は秀吉の甥の豊臣秀次の居城であった。 築城とともに彼は八幡堀を掘削して運河に利用、琵琶湖湖上交通の要衝として安土や近郊の住民を城下にあつめ商業都市の基礎を築いた。秀吉に跡継ぎの秀頼が生まれ、秀次が謀反の罪を着せられ自害させられたあと、この地は商人の町として発展し数々の近江商人が誕生した。この近江八幡の商人の町並みは一見の価値がある。


八幡山城跡











 翌日、JR近江八幡駅からバスで木幡町資料館下車。八幡山の麓の日牟禮八幡宮の脇のケーブルカーにのって豊臣秀次の居城であった八幡山城跡に行くことができる。ハイキングコースもあるのだが、時間が限られた旅行者にはケーブルカーは便利である。

 もう城は自然に帰ってしまっているが、実はその当時、私の祖が秀次に仕えていたという。 祖はここで毎日出仕していたのかと感無量であった。文献によれば、その後、禄を離れ京にいたわが祖は秀次切腹の報を聞き、落涙したと記されている。

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 ケーブルは麓から15分置きに出ている。 
 ぐるりと城跡をめぐって約30分、帰りのケーブルの時間を気にしなくて良いから助かる。

八幡山城跡から見た琵琶湖 かつてはこの城下町には舟が行き交ったのであろうか。 

近江商人の町並みと朝鮮人街道

 江戸時代、朝鮮通信使が往来した彦根から野津までの街道は京街道とも呼ばれていた。 江戸時代通信使は将軍が交代するたびに朝鮮国から国王の親書をもって来日する。一行は約500人で往復で約1年もかかったという。近江八幡では正使は本願寺八幡別院、随員はここの街道一帯で休憩した。

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 この町は近江商人のふるさとと言える。江戸時代から明治期にかけて商人たちは北は北海道、南は九州や東南アジアなどに足を伸ばした。旧市街にはこれらの商人の本宅が軒を並べている。
 
ヴオーリスと近江兄弟社(メンソレ-タム)

 私が幼いとき、転んで怪我をしたときによくメンソレ-タムを塗った覚えがある。メンソレといっていた。 これを輸入し、のちに製造したのが近江八幡に在住したウィリアム・メレル・ヴォーリスである。 近江兄弟社の前には彼の銅像が建っている。 後ろはメンソレ-タム近江兄弟社の社屋。

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 彼はまた、建築設計でこの地に数多くの西洋建築を手がけ、近江八幡の和のたたずまいの中に、異国情緒あふれる西洋風建物が見られる。

 JR線の時間が迫ってきたので次の彦根に移動する。 今晩は彦根駅前のホテルに一泊。

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