近江路の城を歩くーその1 織田信長の安土城跡

 近江路には戦国時代の城や城址が多い。この旅では織田信長、豊臣秀吉の時代の城から徳川期の彦根城まで足を伸ばしてみた。まずはJR東海道本線を利用できる琵琶湖周辺に宿をとり信長の安土城跡、豊臣秀次の居城であった八幡山城跡、井伊家代々のの彦根城、さらに浅井長政の小谷城跡などを訪れた。 


安土城跡

 天下統一をめざし、天正7年(1579年) 織田信長は近江安土の安土山(標高199m)に城を築いた。安土城は我が国で初めて本格的な天守を持った城といわれ、金箔瓦を葺いた5層(内部は7層)は豪華絢爛なものであったという。この城はスペインの宣教師ルイス・フロイスが本国に送った書簡でヨーロッパにも知れ渡ることとなった。

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 信長が安土城を築城してから3年後の天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が中国の毛利攻めの途中、謀反をおこし信長は京都の本能寺で自刃、6月15日にはあおりを食らった安土城もまた焼失してしまった。 

原因は織田信雄が焼き払ったとか、敗走中の明智軍が放火したなど諸説あるが真相は明らかになっていない。

 この4月 雨の降る中、私と妻は安土の地を踏んだ。安土駅前にはレンタサイクル店が並んでいるがこの天候ではどうにもならない。歩くとなれば40分はかかるであろう。そこで、タクシーで行くことにした。途中、キリシタン全盛のころのセミナリオ跡を見て、安土城跡についた。

 麓の案内所にゆくと切り立った石階段が眼に入る。なんと頂上の天守跡まで405段との看板が・・・。

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 雨の降る中、滑りやすい。 それにこんな日に訪れる人は誰もいない。われら夫婦だけである。思わずため息が出る。405段か・・・。四百数十年前の天守跡にたどり着くまで階段一段が一年ずつのタイム・スリップの旅となる勘定だ。
 
 まず、前田利家、羽柴秀吉の館跡を見学。それからが大変だ。一年前・・・十年前・・・五十年前。百年前・・・数えても数えても・・・まだまだ、だ・・・。息を切らして大手道を仏足石まで上がってゆくと黒金門跡にたどり着く。ここからが、やっと安土城なのだ。

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 信長公本廟を見て本丸跡に向かう。そぼ降る雨の中、苔と古木の香りが・・・自然に囲まれ疲れも飛んでしまうようだ。

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本丸跡、さらに天守跡にたどり着く。腰を下ろしたいが、どこもかしこもびしゃびしゃだ、もう降りよう。

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  信長が睥睨した天守、当時の安土の城下町の展望は素晴らしかったと思うが、数百年を経た今は木立ちに囲まれ自然の美しさに戻っている。

帰路は山の中腹の室町時代の摠見寺跡の三重塔、信長が甲賀の長寿寺から移築したといわれている。 
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 ここから琵琶湖からつながる西の湖が開けてみえる。二王門(楼門)を通り、かなり急な石段を下り、案内所に帰る。 全行程は約1時間20分であった。

安土城考古博物館

 安土城考古博物館は安土城跡から歩いて20分あまり、そぼ降る雨と時折の強風で傘をおちょこにしながらたどり着いた。やはりサイクリングでなければしんどい行程である。

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 しゃれた外観の博物館の建物、中には古墳時代の出土品を展示する第一展示室と、織田信長の安土城を中心とした戦国時代の資料が展示されている。

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信長の館

 安土城考古博物館に隣接する信長の館。ここには1992年に開かれた「スペイン・セビリア万博の日本館に出品された原寸大の安土城の天守(5階と6階部分)がある。内部は忠実に再現されて往時の絢爛豪華な城の様子をみることができた。

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 帰りのタクシーはどういう理由か知らないが「信長の館まで行けません、途中のセミナリオ跡まで歩いてきてください」という。だが、そこまでは20~30分、やむなくJR安土駅まで25分の道のり(われわれの足では40分もかかった)をまた雨に濡れながら歩く羽目になった。 安土城祉に訪れるには晴れの日を選んで駅前のレンタ・サイクル店で自転車を借りるか、自家用車で行くことをお勧めする。

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