脇差 切刃石田包真 の由来と三成の足跡の旅

  ここに我が家に伝わる一振りの脇差がある。銘は切刃石田包真(きるば いしだ かねざね)、室町末期の作で鞘の添え書には石田三成の佩刀であったと記されている。今回、大垣市の美術館で開催されている同市出身の画家守屋多々志氏(1925-2003年)の展覧会に妻と訪れたこの機会に、関ケ原で敗れた石田三成の足跡と切刃石田包真の由来を探る旅に出た。 大垣もまた、関ヶ原の戦いの渦中にあった町でもある。

切刃石田(きるば いしだ)

 切刃石田の名は「貞宗」が有名である。これは現在、国立博物館に収められている。 我が家に伝わる「包真」は世間には知られていない。 しかし、鞘の添え書きを見るとこの脇差は元々は本阿弥家が所持していたが石田三成が懇望して得た刀であり、田中兵部少将(関ケ原で敗れた三成を捕らえた徳川方の武将)に渡り、その後、武人でもあり茶人でもあった小堀遠州が秘蔵していたものと記されている。更に遠州に茶の手ほどきを受けた微妙院(前田利常)がこれを得た。その後この脇差は前田土佐守が拝領したようだ。 

 どういう事情があったか分からないがそれは京の商人の手に渡った。それを同じ加賀藩に禄を食んでいたわが家の祖が買い求めたと思われる。
 


 この脇差は私の祖父から父の誕生か結婚の祝いとして贈られたものでサビ刀であったそうだ。外様の加賀藩に碌を食んでいた我が家の歴代たちのこの刀にたいする扱いは幕府の目をはばかって、かなり粗末だったと推測される。父は昭和31年に日本美術刀釼保存協会に鑑定を依頼する際に砥ぎに出したようだ。(鑑定書では貴重刀釼に認定されている)

 関ヶ原の戦いより時代は下って、この包真には当時の刀剣鑑定家で有名な本阿弥光悦の孫にあたる光甫(1601-1682年)の添えj状がついている。(彼もまた鑑定家で、加賀藩の扶持を受けていた)残念ながら私は古文書を読めないので、この旅でこの脇差の由来の更なる手がかりになるものが、近江の石田三成に関連する各資料館にないかと、また古文書を解読できる人物に出会わないかと、そのコピーと包真の写真をを携え調べることとしたわけである。




 本阿弥光甫は1601年生まれ、関ケ原の戦いの翌年である。したがって、この添え状はそれより数十年後のものであろう。 なぜ、この時代に徳川幕府の敵であった三成の所持品と添え状があるのか? 当時の加賀藩主の三代目前田利常(1594-1658年)は、いわゆる「鼻毛の殿様」と愚鈍を装い謀反の疑いから加賀百万石を守った名君である。 

 その曰く付きの刀を土佐守が賜り京の商人の手に渡ったという事は、一歩間違えればお家断絶の危険があったこの三成の刀との関係を断ったのかも知れない。 当時は加賀家中にも幕府の手の者の眼が光っていただろうから。

 ではなぜ同じ家中の私の祖が、これを買い戻したのであろうか? もしかすれば、当時の武人たちに愛されたこの脇差を市中に埋もれさせたくなかったのだろうか? 今ではもう謎である。 また、鞘の添え書きは前田利常の戒名の「微妙院」が記されているからこの記録は彼の没後伝承に基づき、したためられたものであろう。

 一方、捕えた三成から切刃石田貞宗を贈られた田中兵部少将(吉政)はその旨を家康に報告したところ、「記念にもらっておけ」といわれ、お墨付きを得ている。 私の手元にある鞘の添え書には切刃石田包真もまた田中兵部の手にあったと記されているがその貞宗の逸話には包真の名前は登場していない。 ただ、武将は一本しか脇差を所有していなかったとは考えられず、包真も数ある中の刀の一振りであったのかもしれないが、なぜ包眞にも切刃石田の名が冠せられたのだろうか? これも謎である。 

 今回の旅は包真に関連する資料がないかそれを調べると同時に石田三成の足跡を訪れることとしたのである。 旅で訪れた先は前後するが、そのエピソードなど語ってみたい。

石田治部少将三成の足跡、


三献の茶 三成、秀吉との出会い

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鷹狩の帰り道、豊臣秀吉は喉が渇き、観音寺に立ち寄った。その際、寺の小姓であった佐吉(三成)は、大きな茶碗に7~8分ぬるめの茶、もう一杯を求められると二杯目は茶碗に半分ほど入れた程よい熱さの茶、秀吉が三杯目を求めたところ小茶碗に熱い茶をたてて出したという。その気働きを見込まれ秀吉の近習になり、次第に出世していった。この三献の茶を汲んだという井戸が観音寺境内にある。 
 
 この故事に基づき長浜駅前には三献の茶の銅像が立っている。

三成生誕の地

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 長浜市の石田町は石田三成の生まれた町である。石田会館は三成の生家の屋敷跡と言われる場所にある。ここには脇差の切刃石田貞宗と太刀の石田正宗の写真があるが残念ながら切刃石田包真に関する資料はなかった。

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 興味を引いたのは京都の大徳寺三玄院で発掘された三成の頭蓋骨の写真とそれに基づく復元の顔があることだ。現存の肖像画とよく似ていることがわかる。 鋭利な頭脳をもった人物らしく、こうした才気のある人間が政治にかかわり才能を発揮すればする程、その官僚的な臭さに多くの人が反感を覚えるのは世の常であろう。三成の生き様に共感を覚えた人もいる。会館の敷地内には西郷隆盛が詠んだという関ケ原軍記の碑が目に留まった。

 佐和山城

 石田三成の居城であった佐和山城は山の景観を残すのみで、完全に消失している。石垣、櫓などすべてが彦根城に運ばれたという。ハイキングコースとなっているが、今回は遠くから眺めるだけとした。

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長浜城歴史博物館

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 秀吉の出世城といわれた長浜城は1577年頃に完成。天下統一の足掛かりとして1582年まで秀吉は在城した。その後1615年、当時の城主内藤信正(家康の異母弟)が摂津高槻城に移封され廃城となった。石垣、櫓などは彦根城に運ばれた。 現在の長浜城は1983年に復元されたもので、私立長浜城歴史博物館として開館した。 豊臣政権の存続に尽力した石田三成に関する資料は肖像画のみであった。

 切刃石田包真を一時期所有していたという長浜出身の小堀遠州(1579~1647年)の資料も見当たらなかった。

大垣城

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 大垣城は美濃守護・土岐一族の宮川氏により、天文4年(1535年)に創建 されたと伝えられている。

 関ケ原の戦いでは西軍・石田三成の本拠地となった。 小早川秀秋の寝返りで西軍は一日で敗れ、三成は田中兵部少将吉政に捕えられた。 その際、脇差の貞宗を彼に贈ったといわれている。

 大垣城はその後、戸田氏が十万石の城主となり明治まで続いた。現在の大垣城は太平洋戦争で被災し、戦後復元されたものである。

 このほか、安土に足を延ばし、安土城考古博物館の文芸員と面接して古文書など示したが、ここでも切刃石田包真に関する情報を得られなかった。
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 米原駅近くにある関ヶ原の合戦で亡くなった大谷刑部(吉継)の首塚を詣でたあと、私たちの三成に思いをはせた切刃石田包真の由来を追跡する戦国ロマンの旅は終わった。 

 引き続き、石田三成がこれを所持していたかの真偽に関する調査研究を続けてゆくが、まだ第一歩である。いままで数百年も眠っていた脇差、これからも当分の間は我が家で眠りにつくことだろう。そういう思いで東京に戻った。

 最後に私たちの旅につきあってくれた当地の三成タクシーの親切な説明を伴った案内の運転手さんにお礼を申し上げる。


 

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