五島列島と長崎の教会群を訪ねてーその3 長崎浦上・大浦

 8月23日の夕方、中通島の奈良尾港からの船旅は快適であった。 台風15号が九州に接近してくるとの天気予報だが、まだその影響はなく五島列島から出発することができた。長崎は雨かもしれないと思ったが、幸い降ってはいなかった。 まずはホテルに落ち着く。 夜景が美しい長崎の街並みである。


画像















 8月24日、この日は小雨模様。やはり長崎は「今日も雨だった」

大浦天主堂

画像















 パリ外国宣教教会は東アジアの宣教を行うため、宣教師たちが来日した。文久3年(1863)に帰国したジラール神父のあとを引き継いだプティジャン神父によって元治2年(1865)大浦天主堂が完成、2月に献堂式が行われたが日本人は一人もこなかった。

 しかし、翌月になって10数名の男女が天主堂の前に来た。 

画像
















 聖堂に案内されたとき、一人の婦人がプティジャン神父に言った。

 「私どもの胸(心)はあなたさまの胸と同じです」 そして「サンタ・マリアの御像はどこ?」

 プティジャン神父は驚いた。「日本にキリシタンの子孫が残っていたとは・・・」
 教会側の日本の「信徒発見」、浦上キリシタンが250年間待ち望んでいた「神父発見」の有名なエピソードである。
 
西坂の丘

  慶長二年(1597)京都でとらえられた神父6人を含む26人のキリシタンは長崎に送られ、西崎の丘で磔の刑に処せられた。 この26人の殉教者が聖人に列せられたのは大浦天主堂が完成する3年前の文久2年(1862)であった。

 昭和37年(1962) 26聖人の100周年を記念してイエズス会は西坂公園に記念碑と記念館を建築した。
この26聖人の等身大のブロンズ像の制作は舟越保武氏によるものである。

画像














 


 キリシタンたちが信仰を名乗り出たのをきっかけとして、明治元年(1868)新政府のキリシタン迫害が始まった。 浦上キリシタン114名は蒸気船で萩、津和野、福山に送られ、また残りのキリシタンたちも全員20の藩に預けられ拷問や苦役の苦しみを受けた。 五島列島でも{五島崩れ」といわれる迫害が行われた。

 これに対して西欧各国の公使から厳しい抗議があり、当時不平等条約の改正を目指していた岩倉具視はキリシタン禁制の中止を進言した。 明治6年(1873)になって明治政府は禁教の高札の撤去を決定した。 

 明治21年(1889)信教の自由を明記した明治憲法が公布されるとキリスト教信者は4万人をこえるまでになった。

浦上天主堂

 明治13年(1880)この地の庄屋の屋敷を買い取り仮天主堂が建てられた。大正3年(1914)になって、赤レンガの当時東洋一の天主堂が創建された。昭和20年(1945)原爆の投下で倒壊し、司祭2人を含む信徒の21人が犠牲となった。人口24万人の長崎では死者7万4千人という多数の死者が出るという惨状であった。(ちなみに広島では14万人」といわれている)

画像



昭和21年(1946)生き残りのカトリック信者たちの手で仮聖堂が建てられ、昭和56年に現在の鉄筋コンクリート造りの天主堂の姿となった。 


画像

















 倒壊した建物の瓦礫の中からは被ばくしたマリア像(頭部のみ)が発見され小聖堂(被爆マリアの聖堂)に安置されている。 

 ここで、殉教者、迫害されたキリシタン、さらに原爆の犠牲者の冥福を祈って私たちの巡礼の旅を締めくくるミサをおこなった。
         
   


 長崎では小雨に降られたが、 今回の旅はおおむね晴れの天気が続き楽しい旅ができた。 羽田に向かう機上からはるかに世界遺産の富士山の頂が・・・。 長崎の教会とキリスト教関連の歴史遺産群がぜひユネスコの世界文化遺産に登録されることを願って、この五島列島と長崎の巡礼の旅を終えた。 

画像

コメント

このブログの人気の投稿

都内の秋を散策しました

園芸で育ったハーブ類、 料理に役立っています

残っていた戦時中の防空電球