加賀藩の城見取り図 一体どのお城?

気まぐれな今年の梅雨の季節が過ぎ猛暑の夏、例年の通り虫干しをかねて、先祖伝来の古文書の類を整理しました。この中に「四對八城」なる書物が出てきました。昨今のお城ブーム、好奇心もあってこれに目を通してみました。この四對八城は江戸時代の加賀藩の軍学者有澤永貞がしたためたもので、見事な城の極彩色の見取り図(地割り)が描かれています。どうも藩のお城の築城から改築、取り壊しの記録ではないかと推測してみました。

 一.新営
 二.改旧
 三.早築 
 四.漸修
 五.廃棄 
 六.再興
 七.急防 
 八.變形

 八つの城の図に分かれ、宝永七年庚寅季秋(1710年)に作成したと記されています。丁度、江戸幕府では徳川家宣の時代に当たります。

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 有澤永貞(1638―1715年)は、軍学者の山鹿素行に学んだといわれ、地理、測量学を修めた人物で加賀藩では甲州流軍学といえば有澤流といわれていました。

 1615年に出された幕府の一藩一城の規制で加賀藩は金沢城に集約されたと思いますが「四對」とは何を意味するのか、4つの城の意味なのでしょうか? ただし、そうすれば手元の書には二對分の8x8の16枚しかありませんから、このうちの半分かもしれません。

 また、この書には城名が書かれていないので、加賀の四つの城であった「高岡城」「小松城」「富山城」「大聖寺城」の記録ではないかと考え、インターネットで各城の昔の見取り図を調べてみました。

 ロマンに満ちた城探し、ワクワクしながら見比べてみましたが現在の城址は公園になっていたり、ついにこの古絵図に合致するものはありませんでした。 

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(16枚の絵図から抜粋)

 やはり、現地に足を運ばねば分かりませんね。今度ゆっくりと北陸を旅して当時をしのぶ事としましょう。

PS:

 その後、調べたところ、これらの城の図面は実在のものでなく、加賀の軍学者の有澤永貞(1638―1715年)
のこのような築城が望ましい、という軍略的な築城を意味しているいわば講義のテキストであることが分かりました。古地図を手にして、北陸の古城のロマンの旅を夢みていましたが、残念です。

 しかし、まだ疑念が残ります。関ヶ原以来、戦国の世は終わりを告げ、徳川幕府の幕藩体制が確立した
1710年にこのような城の築城はもう必要はなかったのではないでしょうか? また幕府に睨まれている百万石
の大藩がこのような事でお家の一大事にになりかねませんからね。

 

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