お午のドンー正午の時刻を知らせた号砲
東京の小金井市にある都立小金井公園の江戸東京たてもの園。そこには当時のままの状態で保存されている青銅砲があります。「どん」といえば、東京では午砲のことです。明治から大正にかけてお昼を知らせる合図でこの国産の青銅砲の空砲は当時の市民からこよなく親しまれた音です。私が若い頃に会社では土曜日のことを半ドンといっていました。午後は休みだったからです。
また、「どん」とはオランダ語の休日や日曜日を意味する「ドンタク」から来ているとの説があります。博多どんたくはそういう意味から来たと思いますが、私は東京のそれは号砲の音であると解釈しています。
早速、この青銅砲が展示されている小金井公園の中にある江戸東京たてもの園に行って見ました。
この大砲は数々の建物の間の野外に展示されていました。メインの展示物でないので見過ごされそうですが、堂々とした構えです。
大砲の種類としては二十四斤加農砲で幕末には黒船の来航を機とした海防用として品川のお台場に備え付けられたものと同型で、嘉永3年(1850年)ごろから多数鋳造されたものの一つであるようです。
この青銅砲は小金井公園に移される前は日比谷公園に展示されていましたが、午砲として使用されている時には、現在の皇居内の旧本丸跡の主馬寮のそばに据えられていました。この場所も東京市民からは{ドン山}の愛称で呼ばれたとのことです。
1871年(明治4年)から正午の時報として一発発射され、その後、全国19箇所の師団司令部で同じように行われました。発射の時刻は明治21年から東京天文台の標準時が採用され各地には通信で伝えられました。
この午砲は時刻だけでなく、火災や事変の際のそれぞれ3発、5発を発射して市民に知らせる緊急災害の役目もあったそうです。 明治天皇のご崩御の際にも一発の弔いの号砲が響きわたりました。
1922年(大正11年)陸軍の経費削減のため、全国の午砲は廃止されました。その後も東京市が引き継ぎ、1929年(昭和4年)まで続けられました。この午砲の響きは遠く千葉市では1分遅れで、筑波山でも3分30秒遅れで聞こえたそうです。
東京市ではその後、正午の知らせはサイレン時報機に変わりました。 しかし、午砲を意味する土曜日の「半ドン」は東京都となった今にいたるまで、都民に引き継がれています。
参考資料:日本陸軍の傑作兵器駄作兵器 佐山次郎著 光人社
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