歴代の南極観測船はどうなっている?

 2009年12月15日新造の南極観測船New「しらせ」が南極定着氷に着岸し、昭和基地への物資の輸送がはじまりました。 今まで活躍してきた初代の{しらせ}はどうなったのでしょうか。解体されスクラップにされてしまうのかと危ぶまれていましたが、ようやくその行き先が決まりました。 購入者は気象情報会社のウェザーニュース(東京)です。千葉港に係留され南極観測や地球環境への理解を深める施設として公開されるそうです。

 歴代の南極観測船群は退役したあとも、それぞれ南極の知識を広めるために日本の各地に係留保存されています。それが、「しらせ」だけが無くなってしまうなんて心配していました。

 ここで、歴代の南極観測船を調べて見ました。

宗谷(4,100トン)

 1938に就役した宗谷は帝國海軍の特務艦でした。戦後は邦人の引揚げ、海上保安庁の灯台補給船として従事していましたが1956年の地球観測年に改修され、わが国最初の南極観測砕氷船としてその翌年にオングル島プリンスハロルド海岸に接岸しました。 ここに第1次南極地域観測隊は昭和基地を開設しました。その後も宗谷は6回の南極の輸送に従事しました。現在はお台場の船の科学館に係留展示されています。

ふじ(5,250トン)

 宗谷の後継として1965年に「ふじ」が就役しました。当初から南極観測砕氷船として建造されたこの船は第7次から第24次隊の物資の輸送に18年間従事しました。退役後「ふじ」は名古屋ガーデン埠頭に係留され一般公開されています。

しらせ(11,600トン)

 3代目観測船の初代しらせは1983年に就役、2008年まで第25次隊から第49次隊の25回の輸送航海をしました。 装備の整ったこの船によって、わが国の南極観測は飛躍的な成果を得られた事は皆様の知るところです。「しらせ」はわが国の南極探検の先駆者白瀬 矗(しらせ のぶ)中尉の名前をとったのかと思いましたが、実は地名なのだそうです。海上自衛隊の艦船名は伝統的に地名iをとり、人名は付けないのがルールとのことでした。 しかし、どうしても白瀬中尉を連想させますね。

Newしらせ(12,500トン) 

 初代しらせの退役後、2008年の第50次隊の南極観測隊はオーストラリアの砕氷船「オーロラ オーストラリウス」を傭船して行われました。新造Newしらせは、冒頭に述べた通り2009年11月10日南極に向けて出発し、12月15日に昭和基地の70キロ地点の定着氷に着岸しました。海洋、大気汚染、省エネ対策の環境保全を備えたこの新鋭砕氷船は南半球が夏の11月~3月に輸送に従事する予定です。

 船の科学館の「宗谷」と芝浦埠頭公園の南極観測隊員の碑

 お台場の海の科学館では初代南極砕氷観測船「宗谷」が係留保存され一般公開されています。また、わが国の南極探検発祥の地、芝浦。その「芝浦埠頭公園」には白瀬中尉以下南極探検隊員の碑が立っています。今日は、砕氷観測船「宗谷」と南極探検隊員の碑を訪ねました。

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 JR新橋駅からゆりかもめで船の科学館駅を下車。船の科学館に係留されている宗谷(4,100トン)はかなり小さな船だなという印象を受けました。改造中古船のこの船の活躍もさることながら、白瀬中尉の探検船「海南丸」はたった208トンで砕氷能力の無い木造船でした。過酷な南極の氷海によく行けたものだと今更驚きです。 

 ゆりかもめに再び乗車、芝浦埠頭駅下車。、徒歩10分のところにある芝浦埠頭公園には、ここの港から出発した白瀬中尉と探検隊員の名が刻まれた碑が建っています。(写真の奥)この碑は1936年(昭和11年)に南極探検25周年を記念して建てられたものです。

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 手前に建っているスクリューブレードは初代「しらせ」のものです。海上自衛隊から借り受けこの11月に除幕式が行われたばかりです。
 
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 公園には白瀬中尉が南極探検に使った「海南丸」をかたどった遊び場が作られています。 

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 ここで、白瀬中尉の南極探検を駆け足で振り返ってみます。

 1910年11月、弱冠30歳の白瀬中尉以下28名は改装した木造帆漁船「海南丸(208トン)」で南極に向かいます。ところが海氷の状態の悪化で探検隊はオーストラリアのシドニーに戻らざるを得ませんでした。翌々年の1912年1月に海南丸は接岸に成功し探検隊は南極点を目指します。 この時はすでにアムンゼン隊が極点到達に成功しています。

 猛烈なブリザードで白瀬隊は極点到達を断念、付近の雪原を「大和雪原(やまとゆきはら)と命名し引き上げます。 

 自費を投じ南極探検の費用を捻出した白瀬中尉でしたが、南極から帰ったその後の彼の功績についての一般の評価はあまりなく、その一生は辛いものでした。彼は1946年(昭和21年)9月 愛知県で亡くなりました。享年85歳でした。。白瀬南極探隊の記念館は彼の生誕地の秋田県金浦にあります。

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 恵まれない白瀬中尉でしたが、その後のわが国の南極観測は1956年の国際地球観測年に海上保安庁の巡視船を改装した「宗谷」が南極に向かったのを皮切りに、「ふじ」が就役し、1968年12月には第9次越冬隊(村山雅美隊長)が日本人として始めて南極点に足跡を印しました。 白瀬中尉が果たせなかった極点到達の夢は56年後に実現したのです。

 白瀬中尉、そして「宗谷」で始まったわが国の南極観測は、先人の苦労と努力、それに今まで蓄積した成果を糧にして、二代目「しらせ」に搭載された最新テクノロジー機器を駆使して益々科学の成果が期待されます。

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