昔の沢庵の味はどこへ行った

 しょっぱくて歯ごたえ十分、しわくちゃで見た目は悪い沢庵ですが、子供のころはこれでご飯を何杯もお代わりしてしまいました。 いま時の沢庵は甘く、まっ黄色に着色され、ご飯にも染まってしまいます。田舎沢庵も今はいろいろな調味料が加えられ柔らかな歯ごたえで、昔のものとはなにか印象が違います。昔の沢庵の味はどこに行ったのでしょうか。

 沢庵漬けは江戸時代に品川の東海寺の沢庵和尚によって広まったという説があります。 もっとも、大根を干して塩とぬかに漬けた保存食は平安時代からあったようですから「貯え漬け」がなまって、そうなったのだとも言われています。

 別の説によれば、これに尾ひれがついたようです。三代将軍徳川家光が東海寺に沢庵を訪れた際、大根の貯え漬けが供されました。家光は多いに気に入って、「たくわえ漬にあらず、たくわん(沢庵)漬なり」と命名したとか・・・の、なんちゃって話もありますから真偽のほどはわかりません。

 ともあれ、沢庵漬けは保存食品として焼き味噌、梅干とならんで昔から主食のご飯に欠かせないものだったのでしょう。沢庵は現代でも多くの家庭の食卓に上がって日本の味としてその存在を示していますから、名前の通り沢庵和尚が考案した(あるいは広めた)との話が一番わかりやすいと思います。

画像そこで、今日は北品川の東海寺大山墓地にある沢庵和尚のお墓をお参りしてきました。


 京浜急行の新馬場駅より国道15号の北品川二丁目の交差点の山手通りを大崎方面に向かいます。



 徒歩5分、R東海道線のガード下をくぐると 右に東海寺大山墓地の案内板が目に入ります。一寸、分かり難かったのですが、一度行過ぎてしまって戻るとこの看板が目に入りました。細い道を線路沿いに歩いてゆくと突き当たりが大山墓地の入り口です。


画像 うっそうとした古木の間を抜けて、木戸を開けて沢庵和尚の墓の前に立ちました。


一風かわった低い墓石は、たくわん漬けの重しのように見えました。 先入観もあったようですが・・・。

画像
 静かな墓地を想像していましたが、お墓の後ろは新幹線、前は在来線で通過する電車の音でかなり賑やかです。

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 今日はもう一つの目的があります。旧東海道の街道沿いの商店街で「昔ながらの沢庵」を見つけることです。

 JR品川駅の方面にむかって歩くかたわら何軒かの八百屋さんの店を覗いてみましたが、棚に並んでいる商品はまっ黄色に着色された甘いものばかりでした。やっと見つけた田舎沢庵は表示をみるとアミノ酸、甘味料などが添加された沢庵でした。昔ながらの沢庵の味はもうお客には見向きもされないのでしょうか。

「お茶漬けサラサラ、沢庵ポリポリ」

 懐かしい言葉です。素朴な昔の沢庵漬けが食べられたら私の舌は大喜びする事でしょう。田舎に行って探す事としましょうか・・・。
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沢庵和尚とは・・
沢庵和尚(澤庵 宗彭=たくあん そうほう)は但馬の国(現在の兵庫県)の人です。1573年に生まれました。

 幕府は1629年(寛永4年)当時の朝廷が握っていた僧侶への紫衣の勅許の権限を取り上げてしまいました。これを紫衣事件といいます。これに対し沢庵は幕府に抗弁書を提出しました。

 このため出羽の国の上山に流罪になりましたが、1632年(寛永9年) 特赦で京都に帰りました。 三代将軍家光は柳生但馬守の薦めで彼を江戸に招聘、1639年(寛永16年)品川に東海寺を開山し、彼はここの住職となりました。沢庵は1645年(正保2年)ここで没しました。
画像 江戸時代、品川は海に面していて今の八つ山橋の付近は河岸だったのです。旧東海道の品川宿に入ってすぐ問答河岸の碑が建っています。

 将軍家光が東海寺に入る時に、ここで沢庵が出迎えて問答をしたといわれております。




 この時、家光は沢庵にむかって、
「海近くしていかが、これ遠海(東海)寺」と、問うと 彼は
「大軍を率いても小(将)軍なり」と答えたそうです。

 どうも、禅問答というより、オヤジギャグの応酬のようですね。

・・・ということは 「たくわえ漬けにあらず、たくわん漬けなり」の話は、沢庵和尚にギャグ負けした家光のリベンジだった、ということですかねえ・・・。う~ん? ほんとうかい(東海)?


この逸話の後始末は・・


家光公「これこれ沢庵、彼の日に余はそちに二回ほどダジャレを申したかのう」

沢庵 「いえ、三つ(家光)で御座りました」

 おあとがよろしいようで・・・・

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