ぶらり浅草―表と裏通り、下町の粋

  最近、浅草の下町情緒が脚光を浴びています。外人観光客にも人気が高いようです。 7月9~10日はほおづき市、その活気を求めて出かけてみました。今日は、江戸の面影を残す浅草の裏どおりまで脚を延ばすことにしました。 表通り、裏通りの2回に分けてお届けします。 まずは表の浅草の顔から・・・。


 JR新橋駅から地下鉄銀座線に乗り換えました。平日ながらかなり混み合っています。そばの7人の中高年男女、浅草寺をお参りして、ほおづき市を見て、お昼はうなぎ?てんぷら?すきやき?なにを食べようか? ひっきりなしの会話です。ウキウキしています。見ると、周りも浅草寺参りの善男善女でいっぱいです。

浅草表通り

 浅草駅を降り、雷門の大ちょうちんが見えてきました。あれ? まだ、ちょうちんの寄進名は松下電器となっています。私の年代では「松下電器」のほうが身近に感じますが、いつになったらパナソニックに変わるのでしょうか?

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 調べてみると十数年に一度変えるとのこと。裏側にまわると平成15年8月吉日松下幸之助と書かれていました。当分このままでしょうね。 

 雷門は何度も火災を起していますが、慶応元年に焼失したあと、昭和35年になって松下電器産業(現パナソニック)創業者の松下幸之助氏によって寄進されたものです。

 浅草寺へのちょうちんの奉納は寛政7年、焼失した雷門の再建から始まり、江戸っ子の見得もあったのか競争で大きなものへとエスカレートしていったようです。お寺の釣鐘よりも大きくなりました。
 
 「提灯に 釣鐘負けたか 浅草寺」

 江戸時代の川柳です。しかし、大阪の松下さんには負けましたね。 

 雷門の正式名は「風神雷神門」です。 裏側には右に風神、左に雷神の像があります。
どうして、風神さんが抜けてしまったのでしょうかねぇ。江戸時代こんな川柳で揶揄されています。

「門の名で 見りゃ風神は 居候」

 人ごみにもまれ、仲見世通りを浅草寺に向かいます。鎌倉時代の名刹です。大伽藍がそびえています。現在は補修中でシートにくるまれています)

 ご本尊の観音様は1寸8分と小さいので、江戸っ子にまた、からかわれています。

「小粒でも 是見てくれの 大伽藍」

 7月9~10日は浅草寺の「四万六千日」のご縁日です。この日に参拝すれば127年間も日参したのと同じご利益に預かるというので、今日の10日も大変な人出です。ちなみに白米1升は米46,000粒にあたるとか・・・。


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 この日は境内ではほおづき市が開かれています。人の波にもみくちゃにされながら売り手も声を一段と張り上げ、活気を帯びた下町気分は満点。買い手の財布の紐も緩みがち。 まあ、今日はいいんじゃないか、ご祝儀だ。

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画像外人観光客も足を止め、珍しそうに見入っています。彼らの質問に売り子のおネエさんが

「ちょいと!“ほおづき”って、英語でなんていうの? 誰か知らない?」 と困っていました。(注:このおネエさんではありません)

 このほおづき市は200年前の明和年間に始まったといわれ、大人は癪の種、子供は虫の気を封じるとして、青いほおづきの市が開かれるようになったそうです。

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  赤いほおづきも売っています。 

どちらかというと、みずみずしい鉢植の方が人気があるようですが。どこのお店も客足は途絶えません。
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 混雑する仲見世通りを避け、浅草寺の左側の道に入りました。そこに「ふじ屋」という手ぬぐい専門のお店があります。 江戸情緒豊かな歌舞伎、花柄などの手ぬぐいが並べられ眼をたのしませてくれます。店内には女性ばかりで入りにくいな!

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 浅草寺をお参りして、三社祭りで有名な浅草神社を詣でます。 お祭りの日と違い、人出は少ない感じです。 そばに松尾芭蕉の碑があるのは意外でした。

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この句碑は寛政8年(1796年)に建立されたもので、太平洋戦争のあと、この地に移されました。









くぁんをんの いらか見やりつ 春の雲
                芭蕉

 せっかく、浅草に来たのだから、ぶらりと下町情緒豊かな裏通りを散策することにしました。
 
 (注:写真の人物は承諾を得て撮影しました)


浅草裏通り

 浅草寺をお参りしほおづき市を見たあと、浅草の裏側を散策します。表のほおづき市とちがって、本堂の裏手、五重塔の脇の道にはいろいろな食べ物の屋台が並び違った下町の風情が感ぜられます。言問(こととい)通りに向かいます。ここは観音裏といわれているところです。

 言問通りの信号を渡り、雷5656会館のわきの道を進むと粋な浅草見番(正式名は浅草三業組合)がありました。この一帯の浅草の芸者さん、幇間さんなど名前を登録するところです。

 通りかかった地元のおばあさんに聞いて見ました。

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 今は表通りばかりが賑わって、ここはすっかり寂れてしまった。芸者さんたちも置屋も少なくなりましたよ・・・。昔は芸者たちは毎晩のように料亭に呼ばれ活気があったが、今はねえ、そんなお大尽もいないし・・・・。と寂しげでした。

 浅草の花町は江戸以来の伝統を誇り、大正末期には1000人を越える芸妓さんがいたそうです。今は50人、幇間さんも4人。江戸の伝統の粋は廃れつつあります。残念ですね。

 謎解きに 「婆あ芸者ととかけて、梅干と解く」 そのこころは「しわがあっても粋(酸い)がある」なるほど!江戸っ子は口は悪いが、最後は持ち上げていますね。 

 浅草見番は芸者さんのお稽古するところでもあるようですが、耳をすませてもシャミ(三味線)の音も 小唄や清元も聞こえてきません。私はお大尽でも、粋な男でもありませんから、塩を撒かれないうちに早々に退散しましょう。

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 浅草には江戸工芸館や六区などの見所がありますが、そのうちの一つ、浅草花やしきに向かいました。1853年(嘉永6年)の開園ですから長い歴史を持つ遊園地です。今日は表を見るだけ。 


 ここには日本最古のジェット・コースターがあるそうです。

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 花やしき通りには昔ながらの店構えの店が並んでいます。 

 浅草寺の表通りの人ごみから離れ、ここには道というものがあったんだ!という思いです。

 ほっとしたような、物足りないような・・・・・。

 ちょうど、昼時となりました。 伝法院通りにあるてんぷらで有名な「大黒屋」に向かいます。

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 うああ~、これじゃあ何時になったら、食べられるやら。残念!諦めます。

 すき腹をかかえ、とぼとぼと歩を進めると、台東区浅草公会堂に出ました。このビルの前の歩道には有名芸能人の手形が埋め込まれています。一体いくつあるのでしょうか。

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 とにかく、人通りの少ない場所に出て、お客の少ないお店で食事をしてから帰ることにしましょう。

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