さつま芋の青木昆陽ー目黒散策(その3) 日記 散歩 エッセイ
目黒不動の境内にある案内板にしたがって、大本堂の裏手にあるさつま芋で有名な青木昆陽先生のお墓をお参りしました。道のりの長いこと・・・お寺の外に出てしまいました。そこには何も見当たりません。半信半疑で細い道を200メートル行くと、ようやく一群の墓が見えてきました。高台の見晴らしの良い場所です。
昆陽先生のお墓には、供花の代わりにさつま芋が置かれています なあるほど・・・・ねえ!ちなみにこの墓は、彼が生前に建てたといいます。 質素な感じの造りです。伝えられている彼の驕らない性格が表れているようです。
青木昆陽(1698~1769年)は江戸中期の儒者で、飢饉にあえぐ人々のため、さつま芋の栽培を全国に普及させた人物です。栄養価の高いさつま芋に目を付け、彼は「蕃藷考(ばんしょこう)」という書物を発行しています。
さつま芋は名の通り薩摩(鹿児島)から普及しました。 ところが地元の鹿児島では「カライモ」と呼ばれています。中国から琉球に渡り、長崎に上陸したイモだからそう呼ばれているのでしょう。
鹿児島が「薩摩芋」として名をあげましたが、実は栽培は種子島から始まったと言われています。琉球との関係が悪かった島津家に代わって種子島の領主であった種子島久基が栽培したとのことです。 名をとられて割が合わない気もしますが、鉄砲伝来の地として名を上げていますから、まあいいやと譲ってあげたのでしょうか・・・。 鹿児島では、カライモといっていますから遠慮しているのかもしれませんネ。
というわけで、その後関西地方ではさつま芋が各地で作られ始められ、昆陽はこの芋に興味を示しその研究をしてきました。
関東では八代将軍徳川吉宗が彼の甘藷(さつま芋)の知識に目をとめ栽培を命じました。江戸小石川菜園、下総国(千葉県幕張)、上総国(千葉県九十九里浜)で試作されました。これが、天明の大飢饉の折に多くの人々の命が救われたといわれています。
そういえば、私が幼いころの昭和20年代はさつま芋、大豆、や麦が主食で、お米はそれらの穀物の間から一寸顔 (‘_’) を出している程度でした。 昔からさつま芋が人々の飢えを救ってきたのは変わりませんね。
ただ、戦後間もない頃のさつま芋は 大量栽培が可能な「農林1号」という種類で白く水っぽく、味は二の次でした。たまに黄色くほくほくして甘い「金時」が手に入ると家族一同大喜びでした。今、「オイモ~おいも~お」と 売りに来る焼き芋の味と同じです。
中国から伝わってきた昔の「さつま芋」はどんな味だったのでしょうか、一度食べてみたいものです。
青木昆陽は 皆から甘藷先生と呼ばれ尊敬されていました。千葉県幕張には昆陽神社が建てられています。そこでは彼は 「芋神さま」として祀られています。
青木昆陽の墓へのアクセス:
目黒不動の裏手
JR、東急、営団:「目黒駅」より徒歩12分
東急目黒線「不動前」より徒歩8分
東急バス(渋41)「不動尊参道前」より徒歩1分
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