キリシタン灯篭が神社にあった!一体なぜ?
品川駅西口を出て国道15号線を渡って左側、すぐそばの品川プリンスホテルの脇に小さな神社があります。その名は高山稲荷神社。回りの高いビルに囲まれひっそりと佇んでいるので見過ごしてしまいそうですが、もともとは500年前に建立されたものです。 ここで、意外な灯篭を見つけました。「おしゃもじさま」 縁結びの神様として祀られています。もとは切支丹灯篭で、一説には品川で処刑された外国人宣教師を供養するために建てられ、海中より拾われたとも言われています。
もとは高い台地の頂上の高山稲荷神社、
今はビル群の谷間に埋没してしまった。
昔のJR品川駅の付近は小高い丘陵で、頂上の「高山」と呼ばれた神社の社殿からは一望に海岸線が見渡せたと伝えられています。浜辺に近いことから、この切支丹灯篭が海中から拾われたということも一理あります。
また、当時のキリシタン禁令に伴いこの品川から程近い札の辻では、元和9年(1623年)に原 主水を含む50名の信者が処刑されています。これは元和・江戸の大殉教と呼ばれています。
したがって、この付近に住んでいたキリシタン、あるいは灯篭の持ち主が発覚をおそれ海に捨てたのかも知れません。
切支丹灯篭は名古屋の笠寺、金沢の玉泉院、また、キリシタン弾圧のお膝元であった東京(江戸)のなど全国各地のお寺に多数存在しています。中にはキリシタンがいた記録がない地域に在るのも驚きです。
切支丹灯篭はもともと茶人である千利休の弟子、古田織部がキリスト教の全盛のころの天正年間に考案したものです。別名、織部灯篭と呼ばれています。茶道をたしなむ大名や武士、また豪商たちに愛され、お寺などに寄進されたのも破壊を免れてきた一因とも考えられます。
写真で見ると形は大体似通っており、灯篭の竿の部分(脚部)のくぼみには申し合わせたように人の形が彫られています。 これは聖母マリア、あるいはイエス・キリストを表わしているとのことです。高山稲荷神社のそれにも同じように彫られています。
織部灯篭の基本構造は、十字架の形から頭部と両袖を切り落とし下部にマリアやイエスの像を彫り込んだものです。典型的なものは東京都新宿区の「月桂寺」、練馬区石神井の「禅定院」目黒区の「目黒大聖院」にある灯篭です。
高山稲荷のおしゃもじさまも同じ形状です。ただし、現存のものは竿(脚部)のみです。海中から拾われたといわれていますから他の部分は散逸してしまったのでしょう。
灯篭にはキリスト教を直接連想するものは隠されていますが、目黒大聖院の三基のうち一基にはラテン文字のIHS(イエズス会の紋章:イエズスは人類の救世主なりの意)が唐草模様のように刻み込まれていたり、随所に関連する痕跡が残されています。
もう一つの織部灯篭の特徴は普通の灯篭と同じく傘と火袋があり、その下が上に述べたようなおしゃもじ型の竿(脚部)となっているものです。 興味深いのは素通しの火袋に角材を入れれば十字架になってしまうのです。厳しい弾圧下の隠れ切支丹たちの信仰のシンボルであったと想像されます。
東京都北区の「延命寺」や 新宿区の「太宗寺」にある灯篭の形状がこれに当たります。
左の写真は十字架のキリスト像の一例です。織部は宣教師が本国から持ってきたこの形の十字架を参考にして灯篭を造ったのでしょうか?
話を品川の高山稲荷神社のおしゃもじさま(キリシタン灯篭)に戻しましょう。
これがなぜ、神社にあるのか?くわしい伝承はありません。ただ、1-海中から拾われた。2-処刑された宣教師を供養するため。3-この辺にキリシタンが多く住んでいた。ということが伝わっているだけです。
日本各地のお寺にあるキリシタン灯篭は文字通りの「灯篭」であって、石仏として信仰の対象ではありません。しかし、高山稲荷神社の灯篭は「おしゃもじさま」という石神(しゃくじん)として祀られています。
「おしゃもじさま」は元来は病気、百日咳など風邪封じの神様として広く民間に伝わる石神です。
高山稲荷神社に合祀されている「おしゃもじさま」は、もとは高輪の台地の上の「石〔釈)神社」にあり、その場所が石神(しゃくじん)横丁といわれていました。それがおしゃもじ横丁と誤って伝えられてきたー という説もあります。
弘化三年(1847年)の御内府場末沿革図書では「石(釈)神社」は現在のJR品川駅の前のざくろ坂を上がった丁度品川税務署の付近にあったようです。ざくろ坂は当時は里俗ヲシャモジ横丁と記されています。
(東京都港区近代沿革図集: 東京都港区立三田図書館 より引用)
いずれにしても海の中からでてきたといわれるこの「おしゃもじさま」はキリシタン灯篭(織部灯篭)の一部であることは間違いなさそうです。彫られている人物像の長い頭部はイエス・キリストの髪をふくめたものを思わせます。また、なで肩の仏像に比べ、いかり肩はいかにも外国人のようで、無造作な足の開きかたは短い衣とともに見慣れたキリスト教の宗教画と同じポーズを連想します。
一方、この像を見ただけでは誰もが灯篭と思わないでしょう。路傍にある道祖神のようですね。キリシタン禁教の時代にあってこれが石神(しゃくじん)として民間の信仰を集めてきた理由もそこにあるようです。もっとも、中には隠れキリシタンもいて密かにお祈りをしていたのかも知れません。
港区が建てた碑には表はおしゃもじさま、
横にはキリシタン灯篭の説明文がある。
高山稲荷神社の「おしゃもじさま」は風邪封じではなく縁結びの神として祀られています。
なぜ、ここの「おしゃもじさま」は縁結びの神なのか、この謎を解くために伝承をもとにして私なりに推理を働かして見ると,もしかして次のようなラブ・ストーリーが成り立つかも知れません。
時は江戸時代の初め。
ある日、品川の海岸に住む漁師の若者が沖から帰ってきました。船を陸に上げていると一人の乙女が浜辺で聞きなれない歌を口ずさんでいるのが聞こえました。
さんたまりあ・・・・ あれるや・・・・
その乙女の胸元にはクルスが光っていました。
一目見て、若者はたちまち恋におちいってしまいました。
若い二人、彼らが慕い会う仲になるのはすぐのことでした。そして、二人は将来を約束しました。
しかし、時の権力者は彼らの夢をゆるしてはくれません。 あちこちに懸賞訴人の高札が建ちました。
定
き里したん邪宗門之像ハ堅く御禁制たり もし
不審なるもの之に有れば その筋の役所に申し出ずべし
御褒美下さるべく事
宣教師やキリシタンは次々に捕らえられていきました。
恋におちた二人でしたが、時の厳しいキリスト教への弾圧は二人の仲を引き裂き、娘はやむなく姿を隠したのです。
忘れられない恋、そこで若者は捕らえられた宣教師やキリシタンたちが収容されている小伝馬町の牢に、もしや、と思って訪ねてみました。 だが皆、口を閉ざすばかりでした。
乙女に対する若者のひたむきな純愛は、一人の宣教師の心を動かしました。彼は、そっと娘の居所教えました。
キリシタンの身分を隠した娘と漁師の若者は結ばれ、幸せな日々を過ごしていました。でも、その親切な宣教師が処刑されたことを知ります。どうする事も出来ません。悲しみにくれる日々が続きました。
ある日、漁に出た若者の網に重たいものが掛かって来ました。 引き上げてみると灯篭の一部のようです。そこには小伝馬町で親切にしてくれた宣教師に似た像が刻まれていました。
二人は直感的にこれがキリストを意味するものとわかりました。しかし家に置くわけには行きません。若者はこれを、そばの神社に石神と偽って奉納しました。 かなわぬ恋が実った二人はその親切な宣教師を弔うため、その灯篭のお参りを欠かしませんでした。
後年になって二人の数奇な恋の物語を知った人々は、この灯篭を「縁結びのおしゃもじさま」として信仰を集めるようになりました。
今でも、お参りをする人々は絶えません。おしゃもじさまの前にはいろいろなお供え物が置いてあります。
若いカップルが願をかけたのでしょうか。
この話は私が勝手に作ったフィクションですが、皆さんもこのキリシタン灯篭(おしゃもじさま)の由来を想像してストーリーを作って見ることも楽しいかとも思います。
注) 高山稲荷神社は京都伏見稲荷大社の分霊の宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)を祭祀している。ウカは穀物、食物の意味で稲荷神として広く信仰されている。
この神社は今から500年ほど前に建立された。当時のJR品川駅付近は海辺にある小高い丘で高輪(高縄ともいわれた)社殿は二百数十段の階段の頂上にあり、高山神社と称された。
おしゃもじさまは同じ高輪の台地にあった石神社(釈神社)にあり、高輪稲荷神社に合祀されたものだという。
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