信濃路、小布施・・・北斎・一茶のゆかりの地を訪ねて

 渋温泉に1泊したあと、「栗と北斎と花」の町、小布施にむかう。湯田中から特急、しゃれた流線型の車体だ。最後尾の座席に陣取る。左右の展望が開けそこから山麓とりんご畑がゆっくりと遠ざかって行く。小布施駅で下車。今日は平日、お客もまばらだ。


 名所めぐりのシャトルバスは運休だ。 今日は水曜日の定休だからめぐり合わせが悪かっただけなのに、うしろのおばさんのグループからは「失礼しちゃうわ!」と非難の声が上がる。 

 駅の案内板には岩松院徒歩25分とある。タクシーは何台も駅前に止まっているが、我々はゆっくり流の気楽旅だ。散策方々訪れる事とした。梅雨の晴れ間、暑い。清涼飲料を飲みながら駅で貰った観光地図をたよりに道を辿る。 

画像 途中、小林一茶ゆかりの寺、梅松寺を訪れる。 

 文化10年〔1813年)一茶はたびたび当寺を訪れ句会を開き小布施の門人の俳諧の指導にあたった。昔からの小布施の町の文化度の高さを物語っている。ここに一茶の句碑がある

侍に蠅を追はせる御馬哉(一茶)

梅松寺

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 のどかな信濃路のりんご畑、ぶどう畑を脇に見ながらようやく岩松院についた。この寺は戦国時代の武将、福島正則の菩提寺である。本堂の裏手の山の中腹に彼の霊廟がある。

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岩松院

画像 ここで、有名なのは本堂内の大間の天井に描かれた21畳敷の極彩色の「八方睨み鳳凰図」だ。葛飾北斎の晩年の作で、名のとおり何処から見ても鳳凰の視線とあう。私も左から右端まで移動して鑑賞したが、なるほど、見上げるといつも睨まれている感じがする不思議な絵である。

 




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 本堂の裏手の池には蛙合戦の句碑が建つ池がある。 毎年、寺の桜の花見時には産卵のめすを奪い合う雄のひき蛙のくくみ声が一日中響き、閑静な山寺の風情となっている。       








やせ蛙まけるな一茶ここにあり(一茶)

の句は一茶が文化13年(1816年)にこの寺で詠んだものである。

 岩松院を後にして、次の目的地の高井鴻山記念館に向かう。途中、古陶磁器コレクションの了庵に立ち寄る。 ここのご主人は神奈川県出身でIT企業に勤めたあと、ここにミニ博物間を開いた人である。店内には古伊万里や古久谷などの古陶磁器を常設展示している。小布施の新旧入り混じった調和を垣間見ることが出来た。

 ミに博物館のほか、店内には明治、大正、昭和初期の陶磁器も手頃な価格で販売している。未使用のものは藁でくるまれている。意外な掘り出し物があるかもしれない。私の妻は気に入った柄の大正時代の皿を買い求めた。
 
ほどなく高井鴻山記念館に着いた。

画像 鴻山は江戸末期の人で文化3年(1806年)に生まれた。15歳のとき江戸や京都に遊学し、当時の思想家や文人など広い人脈を築き上げた。高井家の当主となって小布施を文化の地に育て上げた人物である。 明治16年に没した。
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高井鴻山記念館と パンフレットの鴻山描く妖怪図



 佐久間象山など幕末の激動期の志士との交流もあったのだろうか、家の中にはかくし戸や逃げるためのトンネルが掘ってあるのも面白い。


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葛飾北斎のアトリエ: 碧漪軒
                            
 鴻山はとくに浮世絵師葛飾北斎の理解者で経済的な支援者として知られている。敷地内には、彼のために碧漪軒(へきいけん)というアトリエを提供し、北斎はここで数々の傑作を描き上げた。鴻山もまた北斎の下絵をもとにした花鳥画、山水画などの合作や 晩年には彼独特の妖怪画の名作を残している。                                     

 江戸時代の風景から離れ、現代の世に戻った。

 小布施の名物は栗菓子、栗おこわだ。 北斎記念館を出てすぐに「竹風堂」がある。おみやげに栗おこわを買った。ここで、疲れた脚を休めると同時に餡蜜やアイスクリームで英気を養った。

 電車の時間がせまり、我々は外に出た。ここから、徒歩8分、長野電鉄小布施駅に戻る。特急で約30分、長野に着いた。さらに信濃電鉄に乗り換え、中軽井沢に戻った。 もう、夕暮れが近い。

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