ザビエルの城ースペイン・バスクの旅

 スペインのバスク地方、ここにフランシスコ・ザビエルが生まれた城がある。 ここはスペイン旅行で私がどうしても訪れたかった場所である。今ではジェットでひとっ飛びの旅行ではあるが、交通機関の発達していない16世紀にザビエルがどのようにして遠い日本の鹿児島にたどり着いたのか、実感したかったからである。 わたし達夫婦のバスクの旅とともに、ザビエルの航跡を追ってみる事にする。


画像 マドリッドから空路ビルバオへ。
 空港でレンタカーを借りる。 まず最初の目的地のヴィトリアに着く。

 今日はここから約12kmほどのアルゴマニスの町のパラドールに泊まる。

 パラドールは中世の面影を残したホテル、昔のバスクの豪族の館を改造したものだ。 一晩たっぷりと中世のスペインを満喫した。


翌日、サン・フェルミン祭(牛追い祭り)で有名なパンプローナにむかう。道路は思ったより狭い。この田舎道にはのどかな田園風景が続く。春のスペイン、太陽の光が降り注ぐ。道端に車をとめ、しばし、休憩。 深呼吸。 澄んだ空気、いい気持ちだ。


画像ザビエル城


 パンプローナからおよそ100キロ、目指すザビエル城が見えてきた。ヨーロッパでよく見られる重厚な城である。



 スペイン読みではハビエルのザビエル城、丘の上に建つその城の周囲には広大なバスクの丘陵が広がっている。


 城の造りは思ったより素朴で荒々しい。 案内人のスペイン語が天井に反響する。


 城の中にはザビエルが毎日十字架の前に佇みイエスに祈りをささげた小聖堂がある。彼は1525年にパリに旅立ったあと、二度とここに帰ることはなかったのだ。


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ザビエル城

 バスク地方はいまでもスペインでは特殊な環境にある。ETAという独立革命組織がある。道々で出会うベレー帽をかぶった男たち。一見、無愛想で老いも若きも何か戦闘的な雰囲気があるのは私の気のせいだろうか。
バスクは昔から中央政府とは一線を画し、戦乱が絶えなかった。パンプローナはフランスとの交易の拠点であった。当時、この地を巡っ て、フランスとそれに組したナバラ王国とスペインが争っていた。

こういう時代の1506年、フランシスコ・ザビエルは生を受けた。


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フランシスコ・ザビエルの肖像画  彼が洗礼を受けた城内の聖堂

故郷を離れてパリへ

 スペインの国王カルロス一世がこの地を併合して、ようやく戦乱がおさまった1525年、青年ザビエルはフランスのパリ大学の聖バルバラ学院に入学した。

 聖バルバラ学院には、当時の大航海時代のポルトガルからの学生が数多く在学しており、サビエルも彼等を通して海外の知識を吸収していった。彼が生涯を賭けた東洋に大きな興味をもったのは当然といえるだろう。


 イグナチオ(イニゴ)・デ・ロヨラとの出会い

 ここでザビエルは、15歳年上のイグナチオ・デ・ロヨラに出会った。彼はかつてザビエルの兄たちが攻めたパンプローナで守備をしていたスペイン軍人であった ザビエルとその仲間は彼の大いなる感化をうけ、その指導の下にイエズス会設立の構想を練った。 

画像  1537年 ザビエルはヴェネツィアで司祭として叙階された。


 この頃からイグナチオ・デ・ロヨラを長とするイエズス会は形を整え始めた。「ミッション(遣わされること)」が彼等の根本をなす言葉であった。イエズス会がローマ教皇から正式に認可されたのは、1540年であった。



 スペイン バスク地方のロヨラ城入り口にある パンプローナの戦闘で負傷したイグナチオ(イニゴ)・デ・ロヨラのブロンズ像。 この負傷で彼は神の啓示を受けたという。


インド ゴアへの旅立ち 


 1541年 教皇大使としてリスボンを出航したザビエルはゴアに到着、病院のそばの貧しい家に住んだ。ここでは子供たちが彼の司牧の対象であった。彼は難しいラテン語の代わりに、地元の言葉で宣教の基本を考えていた。

 そのため、ザビエルは教理の本を作り始めた。「次に訪れる島々の信者の状態を考えて「告白の祈り」を彼等のため特別に翻訳して説明した.(中略)ザビエルは彼等に神から許しを求めることを具体的に教えたかった。日本の教会では鎖国時代に潜伏キリシタンの振興を守るために「コンサリチンの祈り」がどれほど役に立ったか・・・」

ザビエル=結城了悟 著 「聖母文庫」より


この間もザビエルは南インド、モルッカ諸島など絶え間ない布教の旅に出た。 ザビエルにまつわる伝説がいまでも各地に残っている。

聖フランシスコ・ザビエルの岩の伝説

 彼が船に乗る前にサンダルを浜辺の岩にあてて埃を払ったたといわれている。現在マラッカ(現マレーシア)メルダカ公園にはその岩は保存され、鉄の十字架の台座が保存されている。

ワラヌラ(セラン)の島での伝説

 海が荒れ、ザビエルが船べりで無事を祈っていたところ、十字架の紐が切れ海中に落ちた。セラン島に着き、浜辺をザビエルが歩いていると、はさみに十字架をはさんだ蟹が海から出てきたという。マラッカでは背中に十字架を思わせる紋がある大きな蟹のことを「ザビエルの蟹」と呼んでいる。


日本人ヤジローとの出会い

 1547年、ザビエルはマラッカで2人の日本人に出会う。彼は日本の事情をその一人のヤジローからくわしく聞くことが出来た。この頃から、彼の日本への布教の思いは深まっていったようである。(ヤジローは鹿児島に生まれ身分は侍だった。人を殺したため、日本から逃れたのだという)

 1549年、ザビエルの日本への渡航準備が始まった。 同行する人物は 洗礼を授かったパウロ(ヤジロー)と アントニオ、ヨハネという洗礼名の二人の日本人、コスメ・デ・トーレス神父とファン・フェルナンデス修道士である。後年、フェルナンデスは日本でもっとも活躍する人物である。

 その年、一行は日本に向けてゴアを出航した。マラッカからは中国のジャンク船であった。このことはかえって好都合、もしポルトガル船で行ったならば、ポルトガル人の日本での悪評が宣教の妨げとなったであろう。とヤジローは述べたという。


鹿児島に到着

 1549年、一行は鹿児島の港に着いた。ザビエルは 生まれ故郷バスクのザビエル城をあとにしてから24年の歳月を経て、ようやく東洋の神秘の国日本へ到着したのである。

 最初の日本の印象をザビエルは次のように手紙に書いている。

 「1549年8月の聖母の祝日に、他の港に寄らず、パウロ・デ・サンタ・フェ (注:ヤジローのこと) の故郷の鹿児島に着きました。(中略)神は神のことについてわたし達が話すことができるように言語をお与えになるでしょう。そうすれば、神の御恵みによって私たちはおおきな成果をあげることができるでしょう。現在、わたし達は日本人の中に彫刻のように立っているだけです・・・」

(ザビエル=結城了悟 著 「聖母文庫」より

 彼は ゴアやモルッカでも行ったように、ここでも日本語を憶えようとしたのだろうか。


 ザビエル・ その後 

 ザビエルはこのあと各地で布教し、2年3ヶ月のあいだ日本に滞在した。 彼が蒔いた種は、キリシタン大名の出現、多くの宣教者の来日のきっかけともなり、その後、キリシタン迫害にいたるまで日本の歴史に大きな影響をもたらした。

 1552年、ザビエルは中国の上川島で臨終を迎えた。46歳であった。 彼の遺骸はインドのゴアに運ばれ、埋葬された。1622年 ローマ教皇によって彼は聖人に列せられた。

 日本にはフランシスコ・ザビエルの足跡が各地に残されている。 彼の保護をいただくカトリック教会は北海道から沖縄まで数多い。

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 東京の千代田区西神田にあるカトリック神田教会は 日本で最初に聖フランシスコ・ザビエルに捧げられた教会である。 1874年(明治7年)に創設された。


 祭壇の右脇には寄贈されたザビエルの聖遺骨が安置されている。 彼の遺骨はこのほか鹿児島ザビエル教会、山口教会にも置かれている。

           


 ロヨラ城へ


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  わたし達のバスクの旅は続く。 


 車はパンプローナからおよそ100kmのロヨラの城を訪ねた。若きザビエルを指導し、その生涯の道を作ったイエズス会の総長イグナチオ(イニゴ)・デ・ロヨラの出身地である。 



 ちなみに東京の四谷にあるイグナチオ教会は、聖イグナチオ・デ・ロヨラに献堂されている教会である。 また、上智大学はイエズス会が設立母体である。


ロヨラ城のバジリカ(大聖堂) の入り口と聖堂の内部


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 ロヨラ城でで会った神父は日本語がしゃべれるのでびっくりした。日本のイエズス会修道院で十数年暮らしていたそうだ。 彼はこんなところに日本人が尋ねてくるなんて、と驚きながらも歓迎してくれた。


 道すがら、我々は、とある小さな教会の前にさしかかった。 車をとめて近づく。教会の扉から小柄な神父が出てきた。 遠い東洋の国、日本(ハポン)からはるばるやって来た旅人に固い握手でこたえてくれた。


 教会の脇の民家からは中年の女性が手をふっている。 聞くと彼の姉さんで教会の仕事を手伝ってくれているという。


 素朴なバスクの風景を垣間見た。

 フランシスコ・ザビエル、イグナチオ・デ・ロヨラへの想いをはせながら、わたし達の車はパンプローナに戻り、大西洋に面した風光明媚なサン・セバスチャンの町にむかう。 

迎えてくれたのは知人の弟さんとその娘。彼はやはり黒いベレー帽をかぶっている。笑顔で握手と抱擁をかわす。ここで私の妻は彼の娘さんと町の見物。 わたし達は男性専用の会員バーに繰り出す。

 昼間っから、バーは混雑している。 弟さんはりんご酒のグラスをあげ、はるばる日本からやってきた人だと紹介しているのだろうか、次々と握手と乾杯。私はザビエルが日本に到着した時そうであったように、彫刻のように立っているだけだ。しかし、和気藹々の雰囲気はりんご酒の酔いと共にすぐ私をこの場に溶け込ませてくれた。

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 サン・セバスチャンの海岸

 風光明媚なサン・セバスチャンに2泊、ゆっくりくつろいだあとフランスに入り、ルルドを訪れた。このあと、パリに行く予定である。


参考文献: ザビエル=結城了悟 著 「聖母文庫」  

      聖フランシスコ・ザビエルとその時代=神田教会 

      特集 聖フランシスコ・ザビエル生誕500年=カトリック中央協議会

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