N元海軍中尉の短剣
短剣といっても実際に戦闘に使うものではありません。昔、海軍士官や兵学校の生徒たちが腰につるしている儀礼刀です。もちろん、刀身は本物ではありません。今は映画やテレビのドラマでしか見られませんが、凛々しい軍服に腰の短剣、当時の軍国少年の、また、女学生の憧れの的であったようです。今でも、かっこいいことには間違いありません。
中学生時代、私の学校の成績ははっきりいってあまりほめられたものではありませんでした。特に英語の成績はひどいものでした。 心配した父は私に家庭教師を付けてくれました。
「海軍士官さんだったから、オマエのぐうたらな根性を直してくれるだろう」
私は震え上がりました。そんな厳格な人がきたら、毎日友達と野球が出来なくなって、もう誰も誘ってくれなくなると思い、嫌でたまりませんでした。
現れたNさんは、もじゃもじゃの髪でくたびれたセビロ姿、およそ海軍士官らしからぬ風貌でした。今思うに、まるで横溝正史氏の小説の主人公、金田一耕助のようです。しかし、元士官らしく背筋だけはピンとのばして、
「ほう、これがご子息ですか」
と意外と優しい眼をして私をみつめました。戦後、米軍キャンプの通訳を経て現在は都内の高等学校の教師をされているとのことでした。
学校の復習,予習からはじめ、それが終わると英会話の練習、RとL BとV Th の発音を徹底的に繰り返させられました。 期待にそむいて、舌足らずの私には正確な発音が出来ませんでしたが、それでもN先生は、
「耳で聞き分けることは出来るようになったでしょう」
と、もじゃもじゃの髪の毛をかきながら別の意味で褒めてくれました。
夏休みには課外の柔道を教えてくれ、もう、先生というより年上の親友のようになっていました。
N先生の英語が本物であることを知ったのは、彼と近所の駅にむかった時のことです。
道に迷っていた外人夫婦に、先生が 「Can I help you ?」 と声をかけました。
私には、彼らの会話はまったく理解できませんでしたが、ジェスチャーを交えてしゃべるN先生はまるでアメリカ人そのものです。 戦後10年も経っていなかった当時は、アメリカに劣等意識があった時代です。そういう人々と対等に口をきく彼が頼もしく、ますます尊敬するようになりました。 こういうこともあって私の学校の英語の成績も上がったように記憶しています。
ある時、私は質問しました。
「To be or not to be~・・・・の "to be" とはどんな意味ですか」
シェイクスピアのハムレットの一節です。
「生きるべきか死ぬべきかの "べき" だろうな」
そういってから、ノートに次のような言葉を書きました。
To be to be ten made to be
キョトンとしている私に先生は読んでごらんと言いました。
「なんだ、”とべ、とべ、天までとべ” じゃないですか」
彼はすまして言います。
「じゃ、これは」
Full in care cow words to be come me is not
( 古池や かわず飛び込む 水の音 )
「あっ!芭蕉の俳句じゃないか」
N先生はいたずらっぽく笑っていました。
翌週は、私が一生懸命作ったインチキ英語を披露する番です。
Do you who ? Do show more nine
(どういう風? どーしょうもない )
「よく単語を拾ってきたね。でもね、Do you のあとにknow という動詞をつければ立派な英語になるよ。関係代名詞のwho~はこのあとにつければよい」
そういって、このどーしようもない英語がいかに間違いであるか、 主語+動詞+目的語と英文法を判りやすく説明してくれました。
勉強以外にも陸軍の敬礼は肘を張るが、海軍は艦内が狭いから肘をすぼめるのだとか、兵学校や海軍でさかんに歌われていた軍歌の替え歌など、面白く語ってくれる優しいN先生でした。
N先生に別れを告げたのは一年後のことでした。 高校の教師をやめて故郷に引っ込む事になったのです。この時私は知るよしもありませんでしたが、彼の結核はだいぶ進行しており、生徒たちや私に感染することを恐れて故郷で療養されることになったと、その後父から聞きました。
最後の勉強の後、N先生はこれを君にといって、ふろしき包みから一振りの海軍の短剣を取り出し、私の詰襟の学生服の腰に付けてくれました。彼の江田島兵学校の思い出の品です。
私は海軍式の敬礼で答礼をしました。
今は押入れに仕舞いっ放しのこの短剣、テレビのドラマや映画で日本海軍士官が登場すると、ふと海軍中尉であったあの優しかったN先生のことを思い出すのです。
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