江戸のキリシタン屋敷跡を訪ねて

 フランシスコ・ザビエルが日本を訪れたのは天文18年(1549年)でした。以来、キリスト教は来日した宣教師たちによって日本各地で布教され、キリシタン大名、天正遣欧少年使節団、支倉常長等の渡航、キリシタンの迫害などが私たちの知るところとなっています。キリスト教はその当時の日本の統治者たちにとって、貿易に利用できる半面、デウスを頂点とするその教義が広まることは彼等にとって危険なものでもあったのです。


 秀吉による外国人宣教者追放や二十六聖人の殉教に始まり、徳川幕府が基礎を固めてきた慶長18年(1613年)には家康・秀忠のキリシタン禁教令が発せられました。高山右近などの海外追放、そして、日本各地のキリシタンたちにとって、もっとも過酷な迫害がはじまったのは三代将軍家光の時代からでした。

 しかし、武士のみならず庶民に根づいたキリストの教えは、なかなか消えなかったのです。

 幕府は、見せしめのため残酷な刑罰で信者に棄教を迫りました。信者の多くは殉教を選びました。元和9年(1623年)、江戸(三田、札の辻)においても、家康直臣であった原 主水たち50名が全員引き回しのうえ、火あぶりの刑に処せられました。これは元和・江戸の大殉教と呼ばれています。

 捕らえられ拷問の結果、これに耐えかね棄教した宣教者は「転びバテレン」とよばれました。作家の遠藤周作氏は 小説「沈黙」の中でその状況を克明に描いています。

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小石川小日向の江戸切支丹屋敷跡-地下鉄丸の内線 茗荷谷駅下車(徒歩約20分)

 今回訪れたのは、このような幕府のキリシタン禁教を背景とした江戸における収容施設、切支丹屋敷です。正保2年(1645年)頃、幕府大目付、井上筑後守政重が自分の屋敷内に作ったと伝えられています。

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 切支丹屋敷は現在の東京都文京区小石川4丁目茗台中学校の脇から地下鉄丸の内線のガードをくぐった辺にありました。 今は閑静な住宅街の中、屋敷跡の碑文があるのみでまったくその面影はありません。四千坪の敷地があった屋敷跡の周囲を歩いてみて、その規模がどれほどのものであったかを想像することができます。

画像 今は 住宅街の中、キリシタンたちが住んでいた屋敷の面影は無い








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ただ、切支丹坂の名前のみ
が残っている









 幕府は、どんな残酷な処刑をおこなっても、キリシタンたちの信仰がますます高まるばかりで効果が薄いと知るや対策を変え、捕らえた宣教師や信者を説得して転向させたほうが良いと考えました。懐柔策です。 そこで、大目付の井上筑後守を「宗門改め」キリシタン奉行に登用したのです。

 井上筑後守は秀忠の家臣ですが、もとはキリシタン大名の蒲生氏郷につかえキリスト教に帰依し1614年の禁教令で棄教した人物です。したがってキリスト教についてくわしい知識を持っていたと思われます。拷問ばかりが手段ではないと幕府のキリシタン政策が変ったのは彼の助言があったかも知れません。

画像 捕らえられた宣教師は当初、小伝馬町の牢に入れられました。この絶望的環境の中、一般の囚人たちにキリスト教の愛の教え説き、希望を与え次々と洗礼を授けてしまうので、幕府にとって甚だ不都合な存在でした。 そこで宣教師を小日向の屋敷に移し、日本への渡航やキリストの教義、祭具の使い方などを聞き出そうとしたわけです。世間から隔離することで、彼らから「布教の自由」を取り上げてしまったのです。






                                                                (写真は江戸小伝馬町処刑場跡)                                 
 
 小日向の切支丹屋敷では、「転びバテレン」で幕府に仕えているフェレイラ(日本名:沢野忠庵)が通訳として、信者や宣教師達に棄教をすすめたといわれています。この屋敷は、全国からキリシタンの情報が集められた、いわば幕府のCIA(情報局)だったのでしょう。

 ここには数多くの宣教師たちが収容されていましたが、ジョセフ・キャラとジョバンニ・バッディスタ・シドッチは特筆すべき人物です。(注:キャラは小説「沈黙」のモデルの人物)

 背教したフェレイラの信仰を取り戻そうと、先に日本への潜入に失敗し処刑されたルピノ神父たちのあと、第二陣としてキャラは寛永20年(1643年)に宣教師団10名の一員として日本に上陸しました。 しかし、全員捕らえられ長崎から江戸に送られました。

 この小日向の切支丹屋敷に収容され、ここで全員棄教させられました。キャラは岡本三右衛門の日本名と帯刀を許され、妻を娶ってこの屋敷で43年間も暮らし、貞亨2年(1685年)84歳で没しました。

 キャラの死後、1700年頃には日本国内には表面上キリシタン信者も潜入する宣教師もいなくなり、この屋敷は閑散としていたそうです。



 宝永5年(1708年)、ローマ教皇の使いとしてジョバンニ・バッティスタ・シドッチ神父がたった一人で日本にやってきました。九州の屋久島に上陸した彼は捕らえられ、長崎で取り調べを受けた後、江戸に送られました。

 この頃は、前に述べたキャラが捕らえられてから既に55年の歳月が流れ、役人たちはもう誰もキリスト教についての知識がありませんでした。 これがシドッチ神父に幸いしたようです。もう、十字架や聖母の絵を持っていただけで処刑は間違いなかった時代は去っていました。

 彼は切支丹屋敷に収容されたのち、新井白石の尋問を受けました。シドッチ神父は日本での布教が目的であるとの言を変えませんでした。白石の尋問は多岐にわたりました。キリスト教の知識をはじめ、地理歴史など最新の世界の情報を求めたのです。シドッチ神父の説明を元に、白石は「西洋記聞」「采覧異言」を記しました。白石は彼に対し賛辞の言葉を述べています。

 シドッチ神父は棄教しませんでしたが、幕府は囚人としてここに収容することにしました。
しかし、彼に敬意をいだく召使夫婦に洗礼を施したことが発覚し、この屋敷の地下牢に幽閉され、そこで亡くなりました。47歳、正徳4年(1714年)のことでした。

 シドッチ神父の死後、享保10年(1725年)、江戸は大火に見舞われました。すっかりさびれたこの屋敷も折からの強風で類焼、その後、寛政4年(1792年)跡地は分割されいくつもの武家屋敷が立ち並んだという事です。

 わが国でキリスト教が認められたのは明治6年(1873年)のことです。フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸してから324年目のことでした。

 参考文献:江戸のキリシタン屋敷 (谷 伸介著) 出版:女子パウロ会



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