蚊取り線香のけむりと猫の頭
アッ! 蚊がいる! 今年も蚊の季節となりました。貴方が網戸もしないで、窓を開けるからよ! 妻に怒られ、あわててベープを探します。無いぞ、器具は見つかりましたが肝心のマットもリキッドもありません。 まいったな、なおも引き出しの奥を探ると、数年前戸外でバーベキュウをやった時の古い蚊取り線香が出てきました。昔から見慣れた「金鳥の渦巻き」です。もう期限切れで効果がないのでは、と思いつつもライターで火をつけました。昔はそれをブタの形の容器に入れたものですが、今は家にはありません。
しばらくすると、昔なつかしい匂いが部屋に立ち込めます。 何となく夏の気分になるから、私の古くなった大脳皮質もまだ健在な証拠です。 蚊取り線香のけむりはクルクルと私の頭の中をアーカイブして、大失敗をした記憶をよみがえらせてくれました。
小学生のころ、夏ともなれば神奈川県辻堂の祖母の家に母や姉妹と共に訪れたものです。そこでは、昆虫採集や海岸の貝拾い、また、小川で小鮒すくいや夜の花火など、わくわくするような毎日でした。
ある日、夏休みの宿題のため貝の標本を採集しようと海岸を歩いていると、足元の波打ち際に大きな貝殻があるのを見つけました。手に取ってみると、それは貝ではなく海水できれいにさらされた猫の頭蓋骨でした。
ふーん、猫の頭はこんな格好をしているのか。 学校の理科室にある人間の模型のそれと比較してみました。そうだ!この研究は夏休みの宿題にもってこいだ。「人間と猫の頭の骨の形が違うわけ」これをノートに書いてこの標本と共に提出したら、先生は「君は将来、動物学者になりたいのか、それとも、お医者さんか?」と驚くだろうな。そう思いながらこの頭蓋骨をを持ち帰りました。
家に戻ると、きのうで蚊取り線香がなくなったのでしょう、新しい箱が机に置いてあります。
くず入れには、蚊取り線香の空箱が捨ててあります。標本を入れるには格好の箱です。 この中に入れた頭蓋骨は、ふたが浮いてしまいますが何とか納まりました。
ここで、大失敗をしてしまいました。机の上の新しい蚊取り線香の箱の横に、それを並べて置いたのです。
夕暮れ時、この家の、ねえや(お手伝いさん)がいつもの通り蚊取り線香の火をつけようとしました。
「ギャッ!」という声とドタンとなにか倒れる音がしました。隣室にいた皆が駆けつけると、ねえやが白目を剥いて気絶していました。あわてて私の母が介抱します。気が付いたねえやは母にしがみ付き、ただ泣きじゃくるばかりです。
まずい事になった。その原因をいち早く察した私は青くなって立ちすくんだままでした。
皆の目は、床に転がった空の蚊取り線香の箱と歯をむき出した猫の頭蓋骨に向かい、それから一斉に私にそそがれました。こんなことをする犯人は私しかいなかったからです。
母に頬っぺたをひっぱたかれ、祖母にこんこんとお説教された挙句、外に放り出されたのは当然のお仕置きです。 弁解の余地はありません。 誰が猫の頭を夏休みの宿題の教材と思うでしょうか?
暗い縁側でひりひりする頬をおさえやぶ蚊に刺されながら、自分自身が情けなく涙がポロポロ出ました。家の中からは、ほのかに蚊取り線香の匂いが漂ってきます。
こんなことがあったので、猫の頭蓋骨がその後どうなったかわかりません。 多分、信心深かった母が庭の片隅に埋葬してくれたものと推測しています。
あの「ねえや」は今どうしているだろう。あのあと母に連れられ何度も謝ったものの、一言も口をきいてもらえないままになったからです。 一生、許してくれないだろうな。そう思いながらも 「ごめんなさい、申し訳ないことをしました。」 過ぎ去った出来事に対し、もう一度心の中で謝罪しました。
今、部屋にたちこめる蚊取り線香のけむりは、この苦い記憶とともに、夏休みの数々の思い出を甦えらせてくれました。
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