残っていた戦時中の防空電球

  押入れを整理していたら、変わった電球を見つけました。

私の頭の中の古い大脳皮質がすぐ反応、太平洋戦争中の防空電球とよばれていたものです。 それには、こう記されています。
***
マツダ製 100V 10W *
東部防空司令部認定済 三~四畳半畳用 *
使用前ニハ必ズ包紙ノ注意書ヲ御読ミ下サイ *

 残念ながら、包装紙はないので、その内容はわかりません。

 
 戦争末期の昭和19年末、B29の爆撃が日本各地に行われていました。その頃、私はまだ5歳の子供でした。

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「トントン・トンカラリと隣組、格子をあければ顔なじみ、回してちょうだい回覧板・・・」

 当時、童謡で唄っていたこの隣組から回覧板がまわってきたのをまだ覚えています。


 戦闘帽をかぶったおじさんが[空襲警報が発令されたらすぐに家の電気を消して、1つだけ防空燈を付けてください。周りには黒い布をかけるように」

 そう母に言っていたのを横で姉とともに聞いていたと記憶しています。父は出征中でした。

 「空襲警報、発令、〇〇機の敵機が帝都上空に・・・・・・・」
 夜、ラジオからこんな放送が流れてきます。母は居間にぶらさがっている電球を、空襲警報のサイレンが鳴るたびに急いで防空電球にとりかえ、電灯の傘に黒い布をかけていました。

 私の通っていた幼稚園では、防空頭巾を被りしゃがみこんで防空演習ばかりです。
 
 「両ひざを、おなかにつけて目と耳を押さえ、下腹に力をいれなさい。さもないと、爆風でお腹が破裂してしまいますよ。」

と先生。ここの天井にも防空電球が黒い布に巻かれ、だらりと下がっていました。

 空襲が激化し、いよいよ私達も疎開することになりました。疎開先、ここでは空襲もなさそうでしたから、煌々と電灯がついていたので、ほっとしたものです。

 終戦後、私達一家は焼け野原の東京に戻ってきました。奇跡的にわが家は焼け残っていました。 

 もう空襲はありません。だが、物資の不足の時代、父が復員し、妹が昭和23年に生まれてからも、なおも防空電球はわが家では使われていました。風呂場の脱衣所や便所の手洗いの一点にほのかな光を与えていたのを覚えています。


 懐かしさもあって、私はこの古い電球をソケットに付けスウィッチを入れてみました。途端、あの暗い時代の光が灯りました。半世紀以上も眠っていた防空電球。まだ健在でした。

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 もうこれを使うことはないでしょう。いや、もうそんな悲惨な戦争は起こってはならないのだと・・・。 そう思いながら、私はこの電球を押入れの奥に押し込みました。

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