沙漠の冒険ドライブー遊牧民(ベドウィン)のテントを訪ねてー
クウェイト国境に近いサウジアラビアの東海岸。その沙漠には12月になると黒いテントがあちらこちらに見かけるようになる。1月になると白いテントが混じり始め、それは日を追って増えてくる。前者は沙漠にすむベドウィンとよばれる遊牧の羊飼い、後者は都市部にすむ人々がキャンプをするところである。
短い冬がアラビアに訪れる頃、乾いた沙漠にも雨は降り始め、水にうるおった大地から草や花が芽生えてくる。この草を求め遊牧民たちは羊を連れてあちらこちらから移動してくる。 一方、町に住む人々も森林浴ならぬ砂漠浴をかねて、テントを張り、日ごろの窮屈な生活から逃れ、リフレッシュするのだ。
私たちは、代々鷹狩をつかさどる部族であるマリ族のテントに招かれた。彼等のテントは私たちが住んでいる海岸沿いの町から50キロの内陸の沙漠の中に入ったところだ。
沙漠に不慣れな私たちのために案内人をつけてくれるというので、この機会にと日本人家族3家族と日本人小学校の先生たちをふくめ、20人が参加することになった。
沙漠道をアラブ人の案内人の4DWが先導する。その車に続き、その轍のあとをフツーの車が5台続く。
なにせ、沙漠の走行に不慣れだからスタックする車が続出。その度に皆でエイやと押し出し3時間もかけてようやく彼等のテントにたどり着く事が出来た。残念ながらその時にはお目当ての鷹狩は終わっており、目隠しの鷹が疲れ果てて木の台にとまっているだけだった。
私の車から、待ち兼ねた子供たちがわらわらと降り立った。あいにくとご主人が仕事のため参加できないために、ご一緒した2人の奥さんたちと子供2人、それにわれわれ家族の4人をふくめ8人が大型のアメ車シボレーにぎゅうぎゅう詰になって乗ってきたわけだ。
それを見ていた白い髯の族長が私にテントの中の上席に座れと手招きをする。なぜ私だけがこんな良い待遇を受けるのだろうと、どぎまぎしていると、通訳してくれた案内人は、オマエさん若いのに3人の奥さんと子供4人とはたいした奴だと話している、とウィンクして説明してくれた。
そういえば、アラビア語の端はしに賞賛の声がまじるのが私にもおぼろげながらわかる。誤解だと言い訳する暇もなく、あちこちで肩を抱かれて、頬にキスをされる始末、アラブ式挨拶には慣れてはいるが、こんなに沢山のキスははじめだ。
カーペットの上に車座になり、おきまりのお茶がはじまった。アラブでは紅茶は小さ目のグラスに注がれる。このグラスの中の3分の一ほどは砂糖が入っていて、うっかりかき回すと、甘ったるくて到底飲み干すことは出来ない。 上澄みをそっと飲むのがコツである。飲み干すと、すかさず注いでくれる。
きりがないので、初めての人は困ってしまうのが常である。もう結構という仕草は右手にもったグラスを左右に振る動作をする。ややあって、今度はアラブ式のコーヒーがふるまわれる。
アラブ式コーヒーは、豆を軽く炒って砕きそれにカルダモンなどの香料を加え煮だしたものである。各家庭でそれぞれ風味が違って、彼等の間でも、どこそこのコーヒーは美味い、と普段の話題にものぼる。
しかし、西欧式コーヒーになれた我々日本人の舌には漢方薬を煎じたよう味としか思えない。 これをポットからお猪口のような小さな容器に注いでくれる。なつめやしの実(デーツ)や炒ったかぼちゃの種をかじりながら何杯も飲むわけである。
もう結構との合図が先に述べたとおりだ。ちなみに、断るタイミングは奇数のとき、すなわち、1回、3回、5回が礼儀といわれているが、アラブの友人の言ではそんなことないよ、好きなとき止めれば良いとのことであった。
隣のテントには女性たちが同じ歓待をうけているのであろう、私ども男たちは見る事も出来ないが、分厚いカーテンで仕切られた入り口からは陽気な笑い声は聞こえてくる。
彼等は、せっかく来てくれたのだからとラクダレースをしてくれることになった。ちなみに血統書つきのらくだは数千万円もするとのことだ。たった、3頭だけだったが、はるか彼方の地平線に砂煙がたち、だんだんと近づいてくる。
騎手の一人は少年だ。( ちなみにアブダビの公式ラクダレースでも騎手は体重の軽い少年がつとめる。親父が車で伴走し、息子を叱咤激励する。現在、パキスタンの少年がむりやり連れてこられ、乗せられるので、人権問題となって、中止されたようだ)
テントの裏で羊が屠られて、解体されている。遠方から来たお客のために料理を用意してくれているわけだ。砂漠に住む遊牧民のベドウィンはお客には三日三晩歓待すると聞いていたが、けして裕福とは思えない彼らが、三頭もの羊を少人数の我々のために屠ってくれるとは・・・
断るのは失礼かと思ったが、私の連れが帰らなくてはならない時間になってしまった。
あとはほかの日本人グループにまかせ、もう一家族の車と2台で帰ることになった。しかし、帰りは我々のためだけに案内人は付かない。大丈夫、来た道(車のわだち)をたどってゆけば良いとアラブの案内人はいうが、・・・・不安のなかで族長たちと別れのあいさつを交わした。
沙漠の道なき道を、誰とも知れない人が付けた車のわだちにそって、慎重に運転を続けた。なるべく、硬そうなところを選びスタックをしないように、また、東に向うために、車の後ろに常に西に傾いた太陽があるように気を使った。
沙漠をぬけて、ようやく私たちの町にむかうアスファルトの道路に出たときは一同ほっとしたものだ。知らず知らずのうちに南寄りにハンドルを切ったためか、ここから私たちの町まで100キロも離れた地点に出たことに気がついた。皆で残り少なくなったミネラルウオーターを飲みまわし、沙漠の冒険ドライブからの生還を喜びあったことを、最後の文としたい。
私たちは、代々鷹狩をつかさどる部族であるマリ族のテントに招かれた。彼等のテントは私たちが住んでいる海岸沿いの町から50キロの内陸の沙漠の中に入ったところだ。
沙漠に不慣れな私たちのために案内人をつけてくれるというので、この機会にと日本人家族3家族と日本人小学校の先生たちをふくめ、20人が参加することになった。
沙漠道をアラブ人の案内人の4DWが先導する。その車に続き、その轍のあとをフツーの車が5台続く。
なにせ、沙漠の走行に不慣れだからスタックする車が続出。その度に皆でエイやと押し出し3時間もかけてようやく彼等のテントにたどり着く事が出来た。残念ながらその時にはお目当ての鷹狩は終わっており、目隠しの鷹が疲れ果てて木の台にとまっているだけだった。
私の車から、待ち兼ねた子供たちがわらわらと降り立った。あいにくとご主人が仕事のため参加できないために、ご一緒した2人の奥さんたちと子供2人、それにわれわれ家族の4人をふくめ8人が大型のアメ車シボレーにぎゅうぎゅう詰になって乗ってきたわけだ。
それを見ていた白い髯の族長が私にテントの中の上席に座れと手招きをする。なぜ私だけがこんな良い待遇を受けるのだろうと、どぎまぎしていると、通訳してくれた案内人は、オマエさん若いのに3人の奥さんと子供4人とはたいした奴だと話している、とウィンクして説明してくれた。
そういえば、アラビア語の端はしに賞賛の声がまじるのが私にもおぼろげながらわかる。誤解だと言い訳する暇もなく、あちこちで肩を抱かれて、頬にキスをされる始末、アラブ式挨拶には慣れてはいるが、こんなに沢山のキスははじめだ。
カーペットの上に車座になり、おきまりのお茶がはじまった。アラブでは紅茶は小さ目のグラスに注がれる。このグラスの中の3分の一ほどは砂糖が入っていて、うっかりかき回すと、甘ったるくて到底飲み干すことは出来ない。 上澄みをそっと飲むのがコツである。飲み干すと、すかさず注いでくれる。
きりがないので、初めての人は困ってしまうのが常である。もう結構という仕草は右手にもったグラスを左右に振る動作をする。ややあって、今度はアラブ式のコーヒーがふるまわれる。
アラブ式コーヒーは、豆を軽く炒って砕きそれにカルダモンなどの香料を加え煮だしたものである。各家庭でそれぞれ風味が違って、彼等の間でも、どこそこのコーヒーは美味い、と普段の話題にものぼる。
しかし、西欧式コーヒーになれた我々日本人の舌には漢方薬を煎じたよう味としか思えない。 これをポットからお猪口のような小さな容器に注いでくれる。なつめやしの実(デーツ)や炒ったかぼちゃの種をかじりながら何杯も飲むわけである。
もう結構との合図が先に述べたとおりだ。ちなみに、断るタイミングは奇数のとき、すなわち、1回、3回、5回が礼儀といわれているが、アラブの友人の言ではそんなことないよ、好きなとき止めれば良いとのことであった。
隣のテントには女性たちが同じ歓待をうけているのであろう、私ども男たちは見る事も出来ないが、分厚いカーテンで仕切られた入り口からは陽気な笑い声は聞こえてくる。
彼等は、せっかく来てくれたのだからとラクダレースをしてくれることになった。ちなみに血統書つきのらくだは数千万円もするとのことだ。たった、3頭だけだったが、はるか彼方の地平線に砂煙がたち、だんだんと近づいてくる。
騎手の一人は少年だ。( ちなみにアブダビの公式ラクダレースでも騎手は体重の軽い少年がつとめる。親父が車で伴走し、息子を叱咤激励する。現在、パキスタンの少年がむりやり連れてこられ、乗せられるので、人権問題となって、中止されたようだ)
テントの裏で羊が屠られて、解体されている。遠方から来たお客のために料理を用意してくれているわけだ。砂漠に住む遊牧民のベドウィンはお客には三日三晩歓待すると聞いていたが、けして裕福とは思えない彼らが、三頭もの羊を少人数の我々のために屠ってくれるとは・・・
断るのは失礼かと思ったが、私の連れが帰らなくてはならない時間になってしまった。
あとはほかの日本人グループにまかせ、もう一家族の車と2台で帰ることになった。しかし、帰りは我々のためだけに案内人は付かない。大丈夫、来た道(車のわだち)をたどってゆけば良いとアラブの案内人はいうが、・・・・不安のなかで族長たちと別れのあいさつを交わした。
沙漠の道なき道を、誰とも知れない人が付けた車のわだちにそって、慎重に運転を続けた。なるべく、硬そうなところを選びスタックをしないように、また、東に向うために、車の後ろに常に西に傾いた太陽があるように気を使った。
沙漠をぬけて、ようやく私たちの町にむかうアスファルトの道路に出たときは一同ほっとしたものだ。知らず知らずのうちに南寄りにハンドルを切ったためか、ここから私たちの町まで100キロも離れた地点に出たことに気がついた。皆で残り少なくなったミネラルウオーターを飲みまわし、沙漠の冒険ドライブからの生還を喜びあったことを、最後の文としたい。
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