チロルの山で脚を骨折!どうしよう ―苦労した旅行記―
オーストリ-はチロル、雨上がりの山道。急坂を滑って転倒した。その途端にぶい音がした 痛さは感じないが足首が妙な格好をしている。 不安と絶望感。大分前の話だが、今、思い出してもぞっとする。 妻と幼い子供2人をつれて旅の途中に軽率なことをした、とまだ後悔しているが、海外旅行で二度とこの轍を踏まないための自戒として記録することとする。
旅の振り出し
私は海外勤務をしていた。だから毎年一回、長い休暇がとれる。 これを利用して妻と子供2人と共にウィーンをふりだしにジュネーブまで、レンタカーでドライブ旅行を試みた。ザルツカマングートを観光し、インスブルックに数日滞在することとした。ここを拠点に各地に足をのばし探訪する計画だ。この日はドイツのノイシュバインシュタイン城まで国境を越えてドライブに出かける。しかし、猛烈な雨でドイツのフッセンまで行ってあきらめた。
山道で転倒
ドライブの帰路オーストリーのドイツとの国境近いルィッテという町を通る。 その郊外の山の上に古城(廃城)が見えた。 ここでパーキング場に車を入れた。そこの案内板には付近の手ごろなハイキングコースが描かれている。古城まで2キロくらいか。これなら子供でも大丈夫、面白そうだ、そう思って皆で登っていった。そこからもハイキングコースは続いているが、ここで、昼食をとり戻る事にした。
帰り際、雨あがりの道行きにすべりやすい靴が不運を招いた。 ぬれた山道の急坂で子供がすべったのだ。足を一歩踏み出し子供を支えた途端、私もすべって転倒した。露出していた木の根に左足がからまった。いやな音がした。左足が妙にねじれている。身体に震えが来た。捻挫ではないことが直感的に分かった。
最悪だ、折れた。
どうしよう、不安・焦燥感が襲う。ふもとに公衆電話があったのを思い出した。家族を下山させ何とか救助を頼むより仕方が無い。ドイツ語しか通じないのでは?これからの旅と 今の状態がどうなるのか? 、
山の中を一人取り残された絶望感、しんとした周囲の空気、ぬれた地面から寒気がしみ通る。 午後3時ごろかのろのろ時間がたってゆく。やたら眠気が襲う
「What’s happened?」
ふいに英語。 横たわった体を捻じ曲げ、うしろを見る。中年のハイカーが目に入る。
どもりながらも事情を話す。何とか通じたようだ。
待っていろ、とそのハイカーは足早に下山していった。希望の光が見える 神は見捨てなかったのだ。助かった、と思うとほっとしたせいか折れた脚が疼く。
山岳救助隊(そう思えた)が担架を持ってあらわれた。あの頼もしいハイカーもわざわざ戻ってきてくれた。心配ない、あなたの家族もふもとで待っている。救急車も呼んだ。という。
ハイカーはベルギー人、英語が通じるので心強い。学生時代にいい加減ながら受けた英語の授業の有難さを初めて知った。担がれ下山する道すがら、ドイツ語で状況を隊員に通訳してくれている。5時ごろか。ふもとでは妻と子供たちが不安そうな顔で待っていた。
親切なベルギー人に握手をかわし、お礼をいう。彼の手から暖かい心使いがひしひしと伝わってくる。救急車でルイッテの町の病院へ。妻は不慣れな左ハンドルの車で後ろについてくる。国際免許を取得しておいてよかった。
病院へ
カトリック系の意外と大きな病院だ。診察の結果、単純な骨折だった。スパッと折れているから直りは早いとドクターがレントゲン写真をみながら説明してくれる。考えてみれば、当地はスキーのメッカの北チロル地方だ。骨折ぐらいはお手のものだろう。
ギプスをはめ、8人部屋の病室に運ばれる。ベッドの隣はハンググライダーで大腿骨を骨折した青年、この部屋で唯一英語が話せるから隣にしたよ、とドクターがいう。向かいのベッドは交通事故で片足を切断した老人、背骨を折ってギプスで固められ動けない人など様々だ。皆、好奇のまなざしでこの東洋人を見ている。
話が通じないのはまた不安の元でもある。隣の青年に握手をもとめ自己紹介を試みる。しかし、青年がわかる英語といえば数語の単語のみだった。会話はあきらめた。
ストレスがたまったので夕食はあまり喉に通らない。 しかし、ここで驚くべき光景が。患者たちはベッドの中から一斉にワインの瓶を取り出し酒盛りを開始したのだ。なんとか歩ける奴がお酌をして回っている。もちろん、私にもグラスがまわってきた。ダンケシェーンというと、何だドイツ語をしゃべるぜ、こいつは!と皆大笑い。
グラスになみなみと注がれたワインをもてあます。夕食後の診察にきたドクターもニヤニヤしながら、まあ、あなたの勝手だから、と止めない。痛くなったらこれを飲みなさいと痛み止めの薬と睡眠薬をくれた。
突然、皆が騒ぎ出した。隣からは 早く飲んじまえ!といっているのだろうか。ハンググライダーの青年もあわててグラスを空にする。私も傷にわるいなと思いながら一気に飲み干す。 皆にならってグラスを、毛布の下に隠した。
ドアが開いて、カトリックの初老のシスターが顔を出す。怒りをあらわに患者の一人一人を指差し、怒鳴る。そして今度は静な声で説教しドアから出てゆく。
安堵のため息をつき、また、ワインの壜がベッドから顔を出す。しばし、あのシスターの悪口だろうか、誰かが口真似し笑い声。 またまた、ワインの壜がまわってくる。そしてなみなみと注がれる。それを痛み止めの薬を一緒に飲み干す。皆の笑い声を子守唄に・・・疲れと酔いも手伝ってたちまち深い眠りに陥る。
病院の朝、女性看護師のヒルダさん(20代)明るい笑顔で「グーテンモルゲン」と体温計をはかりながら挨拶してまわる。私の顔を見て、一瞬びっくり、また笑顔に戻る。何語で挨拶するのか迷ったらしい。
大きな窓から展望できるチロルの山々。それを見ながら食べる食事は最高。もっとも、昨日の昼からワインとスープしか口にしていない。
オーストリアの病院は清潔、もう、看護士がシーツと毛布カバーを取り替えに来る。それにオイルマッサージ。
ヒルダさんがせっせとベッドの真鍮の手すりを磨いている。それが済むと今度は床をおおきなモップでふく。入院中にそれを勘定すると日に3回もしていた。働き者のヒルダさんのお尻を誰かが撫ぜた。しかし、彼女は動ぜず床掃除を終わると、モップでその患者の顔を拭いた。部屋中が爆笑に包まれる。 私もおかしくて脚まで痛みがひびく。涙がでて止まらない
面会の時間、午後3時
病室がにぎやかになった。あちこちで猛烈なキスシーンで目のやり場がない。ハンググライダーの青年には彼女(たち)が入れ替わり立ち代り。時間調整しているのか、かち合わないのが妙である。一人が帰るとしばらくして別の彼女がくる。見舞い品の花束やクッキーをその度ごとに彼から預かる。彼女たちの面会が一巡したところで全部かえしてやる。ヒルダさんがその花束を花瓶に入れながら、あなたプレイボーイねと言っているのだろうか、ウィンクしている。青年は照れながらもニヤニヤする。あまった花束をヒルダさんにプレセント。よろこんで持って帰った。 ここはソツが無い男だ。 私もサム・アップ(親指をたてて)答えてやる。
午後4時30分 面会の時間が終わりかけたところで妻と子供が来た。
部屋中の視線がそそがれる。
東洋の未知の国、日本からきた夫婦がどんなラブシーンを演じるか興味津々。
ベッドのそばに立ったまま、子供は母親のスカートにしがみついたままだ。
「あなた、大丈夫」 「ウン」
あれから、彼女がどうしたか 手短に説明を聞いた。あれから、80キロも離れたインスブルックまでなれない山道を運転して宿に戻り、ようやく今日この町のツェンマーフライ(民宿)に宿を取ったとの事。何日滞在するかわからないので高いホテルには泊まれないからだ。
こちらは単純骨折だからと説明し彼女はほっとしたようだ。しかし、これからどうするのといわれ答えようもない。
疲れているだろうからもう帰っていいよ、と妻に言う。また明日来るわ。これだけの短い会話の後彼女が帰っていった。
そのあと、病室内がざわめく。向かいの脚を切断した老人が車椅子にのって話しかけてきた。たった今、孫が持ってきてくれたワインの壜を袋から出し飲もうという。口調から気を落とすな、俺たちが付いている、といっているようだ。
どうも皆、誤解しているようだ。こんなラブシーンもないそっけない会話では、脚を折った哀れな男のことを女房が見限ったと思われたようだ。
翌日、誤解を解くために妻に酒を買って来い(皆と飲むから)といったら、すげなく断られた。その日も酒盛り。
母の一周忌でどうしても一週間後には日本に戻らねばならない。格安航空券だから、これからジュネーブまで行かねばならない。3日たって退院することにした。
あなたはオーストリアで怪我してよかった。スイスだったら治療費はここの数倍だとドクターはいう。社会主義国のオーストリアの恩恵。ドクターに診断書を書いてもらい、松葉杖をつきながら退院した。
しぶる妻を説き伏せ車を運転させる。こちらはギプスをまいた脚を上にして助手席にふんぞり返る。ジュネーブまで1000キロもある。 ついでに、とスイスをあちこち観光して帰国便までの時間調整をする。ジュネーブではホテルのベッドの上だけだったのは仕方ない。。
帰国ー 搭乗手続きで思いがけないことが・・・
空港で搭乗手続き、しかし、思いがけない事が・・・・カウンターで搭乗を拒否されたのだ。
診断書にはこの人を飛行機に乗せて良いと書かれていない。係員はいう。冗談じゃない、ほれ、この通り元気だ!とカウンターの前で踊ってみせる。
係員苦笑いしO.Kが出る。それからが親切すぎる。車椅子を持ってきましょうという。
元気だと踊って見せた都合上それを固辞する。それなら乗せてやらないと態度を一変されたら困るからだ。ただし、座席は2人分確保してくれた。これでも、エコノミークラスの座席はせまい。アンカレッジ経由、東京までの長旅は脚の痛さもさることながら、へとへとになってしまった。我が家のたたみの上で寝転ぶこの快適さよ・・・
付記
母の一周忌もつつがなく終え、東京で静養方々、休暇中ではあったが、本社との仕事上の打ち合わせも済んだ。
脚がやせてぶかぶかになったギプスの巻き替えをおこなった。ドクターはこんなしっかりしたギプスの巻き方は見た事もない、一体どこで治療したのか?なかなかはずれないよ、と笑う。日本式の軽くそして歩きやすい(松葉杖で)ギブス姿でまた飛行機に乗り、中東の赴任地に戻った。
不幸中の幸い、骨折したのは左足だったので、現地の我がAT車の運転には不自由しなかった。しかし、当地の酷暑の太陽の熱はギプスの中まで浸透し参った。それに蒸れと痒さとの闘いは続く・・・・。
ふいに英語。 横たわった体を捻じ曲げ、うしろを見る。中年のハイカーが目に入る。
どもりながらも事情を話す。何とか通じたようだ。
待っていろ、とそのハイカーは足早に下山していった。希望の光が見える 神は見捨てなかったのだ。助かった、と思うとほっとしたせいか折れた脚が疼く。
山岳救助隊(そう思えた)が担架を持ってあらわれた。あの頼もしいハイカーもわざわざ戻ってきてくれた。心配ない、あなたの家族もふもとで待っている。救急車も呼んだ。という。
ハイカーはベルギー人、英語が通じるので心強い。学生時代にいい加減ながら受けた英語の授業の有難さを初めて知った。担がれ下山する道すがら、ドイツ語で状況を隊員に通訳してくれている。5時ごろか。ふもとでは妻と子供たちが不安そうな顔で待っていた。
親切なベルギー人に握手をかわし、お礼をいう。彼の手から暖かい心使いがひしひしと伝わってくる。救急車でルイッテの町の病院へ。妻は不慣れな左ハンドルの車で後ろについてくる。国際免許を取得しておいてよかった。
病院へ
カトリック系の意外と大きな病院だ。診察の結果、単純な骨折だった。スパッと折れているから直りは早いとドクターがレントゲン写真をみながら説明してくれる。考えてみれば、当地はスキーのメッカの北チロル地方だ。骨折ぐらいはお手のものだろう。
ギプスをはめ、8人部屋の病室に運ばれる。ベッドの隣はハンググライダーで大腿骨を骨折した青年、この部屋で唯一英語が話せるから隣にしたよ、とドクターがいう。向かいのベッドは交通事故で片足を切断した老人、背骨を折ってギプスで固められ動けない人など様々だ。皆、好奇のまなざしでこの東洋人を見ている。
話が通じないのはまた不安の元でもある。隣の青年に握手をもとめ自己紹介を試みる。しかし、青年がわかる英語といえば数語の単語のみだった。会話はあきらめた。
ストレスがたまったので夕食はあまり喉に通らない。 しかし、ここで驚くべき光景が。患者たちはベッドの中から一斉にワインの瓶を取り出し酒盛りを開始したのだ。なんとか歩ける奴がお酌をして回っている。もちろん、私にもグラスがまわってきた。ダンケシェーンというと、何だドイツ語をしゃべるぜ、こいつは!と皆大笑い。
グラスになみなみと注がれたワインをもてあます。夕食後の診察にきたドクターもニヤニヤしながら、まあ、あなたの勝手だから、と止めない。痛くなったらこれを飲みなさいと痛み止めの薬と睡眠薬をくれた。
突然、皆が騒ぎ出した。隣からは 早く飲んじまえ!といっているのだろうか。ハンググライダーの青年もあわててグラスを空にする。私も傷にわるいなと思いながら一気に飲み干す。 皆にならってグラスを、毛布の下に隠した。
ドアが開いて、カトリックの初老のシスターが顔を出す。怒りをあらわに患者の一人一人を指差し、怒鳴る。そして今度は静な声で説教しドアから出てゆく。
安堵のため息をつき、また、ワインの壜がベッドから顔を出す。しばし、あのシスターの悪口だろうか、誰かが口真似し笑い声。 またまた、ワインの壜がまわってくる。そしてなみなみと注がれる。それを痛み止めの薬を一緒に飲み干す。皆の笑い声を子守唄に・・・疲れと酔いも手伝ってたちまち深い眠りに陥る。
病院の朝、女性看護師のヒルダさん(20代)明るい笑顔で「グーテンモルゲン」と体温計をはかりながら挨拶してまわる。私の顔を見て、一瞬びっくり、また笑顔に戻る。何語で挨拶するのか迷ったらしい。
大きな窓から展望できるチロルの山々。それを見ながら食べる食事は最高。もっとも、昨日の昼からワインとスープしか口にしていない。
オーストリアの病院は清潔、もう、看護士がシーツと毛布カバーを取り替えに来る。それにオイルマッサージ。
ヒルダさんがせっせとベッドの真鍮の手すりを磨いている。それが済むと今度は床をおおきなモップでふく。入院中にそれを勘定すると日に3回もしていた。働き者のヒルダさんのお尻を誰かが撫ぜた。しかし、彼女は動ぜず床掃除を終わると、モップでその患者の顔を拭いた。部屋中が爆笑に包まれる。 私もおかしくて脚まで痛みがひびく。涙がでて止まらない
面会の時間、午後3時
病室がにぎやかになった。あちこちで猛烈なキスシーンで目のやり場がない。ハンググライダーの青年には彼女(たち)が入れ替わり立ち代り。時間調整しているのか、かち合わないのが妙である。一人が帰るとしばらくして別の彼女がくる。見舞い品の花束やクッキーをその度ごとに彼から預かる。彼女たちの面会が一巡したところで全部かえしてやる。ヒルダさんがその花束を花瓶に入れながら、あなたプレイボーイねと言っているのだろうか、ウィンクしている。青年は照れながらもニヤニヤする。あまった花束をヒルダさんにプレセント。よろこんで持って帰った。 ここはソツが無い男だ。 私もサム・アップ(親指をたてて)答えてやる。
午後4時30分 面会の時間が終わりかけたところで妻と子供が来た。
部屋中の視線がそそがれる。
東洋の未知の国、日本からきた夫婦がどんなラブシーンを演じるか興味津々。
ベッドのそばに立ったまま、子供は母親のスカートにしがみついたままだ。
「あなた、大丈夫」 「ウン」
あれから、彼女がどうしたか 手短に説明を聞いた。あれから、80キロも離れたインスブルックまでなれない山道を運転して宿に戻り、ようやく今日この町のツェンマーフライ(民宿)に宿を取ったとの事。何日滞在するかわからないので高いホテルには泊まれないからだ。
こちらは単純骨折だからと説明し彼女はほっとしたようだ。しかし、これからどうするのといわれ答えようもない。
疲れているだろうからもう帰っていいよ、と妻に言う。また明日来るわ。これだけの短い会話の後彼女が帰っていった。
そのあと、病室内がざわめく。向かいの脚を切断した老人が車椅子にのって話しかけてきた。たった今、孫が持ってきてくれたワインの壜を袋から出し飲もうという。口調から気を落とすな、俺たちが付いている、といっているようだ。
どうも皆、誤解しているようだ。こんなラブシーンもないそっけない会話では、脚を折った哀れな男のことを女房が見限ったと思われたようだ。
翌日、誤解を解くために妻に酒を買って来い(皆と飲むから)といったら、すげなく断られた。その日も酒盛り。
母の一周忌でどうしても一週間後には日本に戻らねばならない。格安航空券だから、これからジュネーブまで行かねばならない。3日たって退院することにした。
あなたはオーストリアで怪我してよかった。スイスだったら治療費はここの数倍だとドクターはいう。社会主義国のオーストリアの恩恵。ドクターに診断書を書いてもらい、松葉杖をつきながら退院した。
しぶる妻を説き伏せ車を運転させる。こちらはギプスをまいた脚を上にして助手席にふんぞり返る。ジュネーブまで1000キロもある。 ついでに、とスイスをあちこち観光して帰国便までの時間調整をする。ジュネーブではホテルのベッドの上だけだったのは仕方ない。。
帰国ー 搭乗手続きで思いがけないことが・・・
空港で搭乗手続き、しかし、思いがけない事が・・・・カウンターで搭乗を拒否されたのだ。
診断書にはこの人を飛行機に乗せて良いと書かれていない。係員はいう。冗談じゃない、ほれ、この通り元気だ!とカウンターの前で踊ってみせる。
係員苦笑いしO.Kが出る。それからが親切すぎる。車椅子を持ってきましょうという。
元気だと踊って見せた都合上それを固辞する。それなら乗せてやらないと態度を一変されたら困るからだ。ただし、座席は2人分確保してくれた。これでも、エコノミークラスの座席はせまい。アンカレッジ経由、東京までの長旅は脚の痛さもさることながら、へとへとになってしまった。我が家のたたみの上で寝転ぶこの快適さよ・・・
付記
母の一周忌もつつがなく終え、東京で静養方々、休暇中ではあったが、本社との仕事上の打ち合わせも済んだ。
脚がやせてぶかぶかになったギプスの巻き替えをおこなった。ドクターはこんなしっかりしたギプスの巻き方は見た事もない、一体どこで治療したのか?なかなかはずれないよ、と笑う。日本式の軽くそして歩きやすい(松葉杖で)ギブス姿でまた飛行機に乗り、中東の赴任地に戻った。
不幸中の幸い、骨折したのは左足だったので、現地の我がAT車の運転には不自由しなかった。しかし、当地の酷暑の太陽の熱はギプスの中まで浸透し参った。それに蒸れと痒さとの闘いは続く・・・・。
コメント
コメントを投稿