徳川家康の居城ー駿府城事件簿
10月、ようやく暑さも過ぎた10月9日 静岡県の駿府城公園を訪れる機会を得た。駿府城はいわずと知れた徳川家康の居城だったところだ。彼は大御所としてここから江戸の幕府を牛耳っていた。 かつて今川氏の領土であった駿府には家康は人質として19歳までこの駿府で暮らしていた。幼少期から12年間の思い出は晩年の家康には忘れがたい土地であったのだろう。家康が暮らしたこの城は彼の天下統一の場として重要な意味を持つ。しかし、今回訪れたこの城には、過去いろいろな出来事が起こっていたことが分かった。今回これを事件簿としてまとめることとした。 事件簿その一:秀吉に乗っ取られた駿府城 天正14年(1586年)駿河を領地とした家康は、三年後に天守をはじめに二の丸を完成させた。守りが固く攻めるに難しい駿府城、天下人の野望を抱く豊臣秀吉はこれに目を付けた。小田原の北条攻めの際、駿河に進軍した秀吉に一旦は彼に臣下の礼をとっていた家康はこの城を明け渡さずるを得なかった。北条氏滅亡のあと家康は江戸に転封されることとなる。 秀吉は自分の好みに合わせて駿府城を金色の装飾にリフォームしたようだ。現在発掘調査が行われている天守跡からは金箔付きの瓦が出土した。秀吉は大坂城と同じくこの城を己の権力を誇示したかったに違いない。 ところが、家康も黙ってはいなかった。関ヶ原の戦いのあと、慶長11年(1606年)駿河の町の充実とともに隠居所として新しい城の建築をはじめた。秀吉の時代のものは破壊された。発掘中の現場から姿を現した石垣が秀吉時代、家康時代で組み方が違ったことが判明した。 慶長15年(1610年)慶長12年の火災で焼失した天守も再建された。この周囲は多門櫓でかこまれ、天守は際立つように6層の高さ、その大きさも江戸城の天守に比べ1.5倍の大きさだったとされる。この城は二代将軍秀忠の江戸城も凌ぐ大御所の権威を見せつける象徴であった。 事件簿その二:家康の直臣には多数のキリシタン達がいた 織田信長の時代に全盛を極めたキリシタン、大友、有馬などのキリシタン大名、武士たちも帰依するものが多かった。秀吉の禁教令から始まった切支丹弾圧は家康の時代には厳しさを増した。徳川家康の直臣にも多くのキリシタンがいた。慶長17年(1612年)駿府の武士に対するキリシタン宗門改めを命じ、駿府の直臣キリシタン56名が改易、追