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2月, 2009の投稿を表示しています

おおとり神社ー目黒散策 (その4)

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  五百羅漢寺ー目黒不動ー昆陽のお墓を巡ったあと、道を戻って7分、大鳥(おおとり)神社に着きました。昔から「目黒のおとりさま」で人々に親しまれてきた神社です。浅草の鷲(おおとり)神社とならんで有名です。毎年11月の 酉の市 に人でごったがえすここも、平日の午後は閑散としています。  おおとり神社は1200年の歴史を持つ目黒最古の神社です。806年、和泉(大阪)の大鳥(おおとり)の神を勧請したといわれています。  おおとり神社には日本武尊命(ヤマトタケルノミコト)が祀られています。 酉の市 は日本書紀に記されているヤマトタケルノミコトが「十月巳酉」に出発した日を起源としています。また、彼の東征の折、酉の日に焼津で火責めに遭い、草薙剣(くさなぎのつるぎ)で草を薙ぎ、当時の武具の一つであった 熊手 で草をかき集めた故事が酉の市の起源になったーともいわれています。   おお きく(福を) とり こむーと酉の市には縁起物として熊手が売られるようになったとのことです。 今では、この神社は商売繁盛の神様として賑わっています。  草薙剣はもともと天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と呼ばれていました。神話では須佐之男命(スサノオノミコト)が出雲の国で八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)を酒で酔っ払わして退治しました。尾を切り裂いたところ、一振りの剣が出てきたのでこれを天照大神(アマテラスオオミカミ)に献上し、天叢雲剣と名付けられた・・・と伝えられています。  その後、ヤマトタケルノミコトが東征の際に伊勢神宮に参拝し、この「天叢雲剣」を授けられたともいいます。焼津の火責めにあった際、 草を薙ぎ 窮地を脱したことから「草薙剣」の名を追銘されたといわれています。   境内にはオオアカガシの巨木があります。東京都の天然記念物に指定されています。樹齢はわかりませんが、相当な年月を経てきたことが窺われます。 夏には蝉の声がうるさいでしょうね。  その脇には織部灯篭―いわゆるキリシタン灯篭がありました。この灯篭の特徴は竿部(脚)にはかならず人の形をした像が刻まれており、マリア、あるいはイエスの姿をあらわしたものだといわれています。これはお地蔵さんだ、という説もありますが、この灯篭は茶人の千利休の弟子である古田織部がザビエルの来日後の日本のキリシタン全盛のころの天正年間に考案したのですから、私は織部がキリス

さつま芋の青木昆陽ー目黒散策(その3) 日記 散歩 エッセイ

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  目黒不動の境内にある案内板にしたがって、大本堂の裏手にあるさつま芋で有名な 青木昆陽 先生のお墓をお参りしました。道のりの長いこと・・・お寺の外に出てしまいました。そこには何も見当たりません。半信半疑で細い道を200メートル行くと、ようやく一群の墓が見えてきました。高台の見晴らしの良い場所です。  昆陽先生のお墓には、供花の代わりに さつま芋 が置かれています な あ るほど・・・・ねえ!ちなみにこの墓は、彼が生前に建てたといいます。 質素な感じの造りです。伝えられている彼の驕らない性格が表れているようです。   青木昆陽(1698~1769年) は江戸中期の儒者で、飢饉にあえぐ人々のため、さつま芋の栽培を全国に普及させた人物です。栄養価の高いさつま芋に目を付け、彼は「蕃藷考(ばんしょこう)」という書物を発行しています。  さつま芋は名の通り薩摩(鹿児島)から普及しました。 ところが地元の鹿児島では「カライモ」と呼ばれています。中国から琉球に渡り、長崎に上陸したイモだからそう呼ばれているのでしょう。  鹿児島が「薩摩芋」として名をあげましたが、実は栽培は種子島から始まったと言われています。琉球との関係が悪かった島津家に代わって種子島の領主であった種子島久基が栽培したとのことです。 名をとられて割が合わない気もしますが、鉄砲伝来の地として名を上げていますから、まあいいやと譲ってあげたのでしょうか・・・。 鹿児島では、カライモといっていますから遠慮しているのかもしれませんネ。  というわけで、その後関西地方ではさつま芋が各地で作られ始められ、昆陽はこの芋に興味を示しその研究をしてきました。  関東では八代将軍徳川吉宗が彼の甘藷(さつま芋)の知識に目をとめ栽培を命じました。江戸小石川菜園、下総国(千葉県幕張)、上総国(千葉県九十九里浜)で試作されました。これが、天明の大飢饉の折に多くの人々の命が救われたといわれています。  そういえば、私が幼いころの昭和20年代はさつま芋、大豆、や麦が主食で、お米はそれらの穀物の間から一寸顔 (‘_’) を出している程度でした。 昔からさつま芋が人々の飢えを救ってきたのは変わりませんね。  ただ、戦後間もない頃のさつま芋は 大量栽培が可能な「農林1号」という種類で白く水っぽく、味は二の次でした。たまに黄色くほくほくして甘い「金時」が手

目黒不動ー目黒散策(その2) 日記 散歩 エッセイ

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  五百羅漢寺を出て、右手の細い道を上がってゆくと目黒不動に行き着きます。ここは泰叡山瀧泉寺という天台宗のお寺で不動明王を本尊とする関東最古の不動霊場です。大同3年(808年)に 慈覚大師円仁が下野国から比叡山に向かう途中、不動明王を安置して開山したといわれています。1615年に本堂が消失、三代将軍家光によって再建され、以後、幕府の庇護をうけ、人々の信仰を集めてきました。  文化・文政の時代には「江戸の三富」と呼ばれた富籤が湯島天神、谷中感応寺とともに目黒不動で行われていました。 時代劇のなかで「富くじがあたった!」と江戸の熊さん八っあん」が大騒ぎしている場面がありましたね。 現に当時の富くじは庶民の楽しみの一つであったとも思います。信仰心もさることながら、ここに人が集まってきたわけが判ります。 仁王門    落語の「目黒のさんま」はこの近辺にある参拝者の休憩所のひとつの「爺が茶屋」がモデルになったといわれています。  広い境内には独鈷の滝、役の行者像、石仏八大童子など見所が一杯です。 今日はちょいと寒いのですが、桜の季節ごろ、ゆっくりと散歩をするのも楽しいかと思います。  お寺の前には和菓子屋さんがあって、団子や大福を売っています。早速、大福を買い求め、ほおばりました。美 独鈷の滝    石段をあがり大本堂の背後にある霊座には銅製の大日如来像があります。1615年の火災のあと天和3年(1683年)の作です。密教の根本尊である大日如来の化身が不動明王です。不動明王は梵名をアチャラ・ナータといいます。ゆるぎなき守護者と言う意味です。 大本堂  目黒不動は江戸五色不動のひとつです。あとで調べて驚きました。三代将軍徳川家光が江戸府内に5ヶ所の不動尊を選び、天下泰平を祈願したとのことですが、目黒のほか、目白不動(金乗院―豊島区) 目赤不動(南谷寺―文京区) 目青不動(教学院―世田谷区)、目黄不動 (最勝寺―江戸川区) にあるそうです。順番に訪れてみたいですね。不動様の目の色がこんなに変わったら こちらは目を廻してしまいそうです。 目黒不動へのアクセス: JR、東急、営団:「目黒駅」より徒歩12分 東急目黒線「不動前」より徒歩8分 東急バス(渋41)「不動尊参道前」より徒歩1分