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エッ! こんな急階段を馬で上がったのー芝 愛宕山

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 寛永の三馬術のひとつ曲垣流の元祖は四国讃岐国、生駒家藩士の曲垣平九郎です。 寛永11年(1634年)、時の三代将軍徳川家光公の見守る中、梅の花を献上するため芝は愛宕山の急階段を馬で駆け上ったと云います。 これは講談で聞いた話ですからウソか本当かわかりません。 丁度、梅の見ごろの季節、真偽をたしかめるためこの愛宕山を訪ねてみました。  事の発端は我が家の先祖伝来の品、桐箱に収められた三巻の馬術の巻物です。 箱には麗々しく「鞍,鐙、轡 目利き書 三巻」と書かれています。 私のじい様が当時馬術をやっていた学生の親父にくれたものです。 この巻物は寛永11年からおよそ100年あとの享保年間(1716年~)に書かれたものですから江戸時代の日本馬術書として爛熟期のものといえましょう。   もっとも、じい様は親父に「お前は四男坊だから良いものはやれないよ」と言ったと聞いていますから、巻物自体は骨董価値のあるものではないでしょう。 江戸時代、どこの家中でもゴロゴロあった写本と思われます。 とは言うものの丁寧に桐箱に収められ鎮座ましますこの巻物、やはり私の目には柳生流か猿飛佐助の甲賀忍法の免許皆伝の秘本と同じように映ってしまいます。 まずは、テレビで見るお侍サンを真似て一巻を紐解き、さらりと広げます。  何じゃこれは? いにしえの奴ばらは今どきの者が読めぬ字を書くのでござるか、まさに難解でござる。  ふむふむ、これは、くつわ(はみ)と申す昔の日本の馬具でござるかの。  なんちゃら、かんちゃら、のたくり回る達筆は右を跳ね、いや今度は左とは・・・。 さてさて馬を御すより先に古文書を読む事とは、さても難しきものよな。 拙者はギブアップにて御座候。 それにしても疲れたのう。 コレ、奥や、茶を一服所望したい。 「ご自分でおやりあそばせ!」 ・・・ ガクッ! ・・・  まあ、そんなわけで急に興味を持った寛永三馬術、曲垣うじの晴れの舞台、江戸を改め今は東京の港区は芝の愛宕山へ散策と相成ったわけです。 注: 寛永三馬術とは柳川立花家の向井蔵人、筑前唐津寺澤家の筑紫市兵衛、 讃岐国生駒家の曲垣平九郎を指す) ♪♪汽笛一斉、新橋を 早わが汽車は離れたり 愛宕の山に~♪  JR新橋駅から歩いて約20分バス停は愛宕山下、東横インの隣りの愛宕山に着きました。 (手前の神社参道からはNHK放送博物館へ車で

温暖化というのに行き過ぎた住居の暖房

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 昔は寒かった。 がたぴし雨戸を揺する木枯らしの音も一層身にしみたものです。 暖かい亀甲型の湯たんぽ、股火鉢、肩まですっぽりと包み込む、かい巻き。 これらは皆、先人の過酷な冬に対する生活の知恵なのです。 私のオヤジはいつもきまって、らくだの下着、股引をはいた上、フラノのシャツ、部屋の中でも分厚いセーターを着ていました。 こたつに入っている子供たちを見ると、「コドモは外で遊んでいろ!」 と怒鳴りつけ、追い出されたものです。 いまどきそんなことをしたら、過保護ママからは 「虐待です!インフルエンザにかかってしまいます」 と逆に食ってかかられるに違いありません。 ♪焚き火だ、焚き火だ、落ち葉焚き~ 当たろうか、当たろうよ~(前後の歌詞を忘れてしまったが)、この歌を歌いながら庭の落ち葉を集め、よく焚き火をしたものです。 今はすぐ通報され、消防車がとんでくるかもしれませんね。 ワンちゃんに着物を着せて、ペット用の暖房シートで暖めてやる時代。 ♪犬は喜び、庭駆け回り・・・・ ワン公の楽しみを奪ってはいませんか。 昔のオヤジのようならくだの股引や重ね着には、いささか抵抗があります。 私は 現代のファッションに迎合してしまったのか、伊達の薄着の習慣がついてしまいました。 だから温暖化とはいえ、それでも冬は寒い。 暖房完備の我が家ではすぐヒーターを入れてしまうのが常です。  2006年の世界の平均気温は平年(1971~2000年の平均値)より、0.3度高。 日本は0.41度高です。 そういえば、街でミシュランの広告のタイヤ男のもこもこのキルティングを着た人たちはいなくなり、町行く人のファッションもだいぶスリムなデザインになってきました。 軽くて暖かいフリースなんか妻も愛用しています。  近所のスーパーなど買い物に行くときも、あそこは暖かいからとつい、薄着のまま飛び出してしまいます。 帰ってきてから冷えた体を温めようと、ヒーターの温度を更に上げてしまう矛盾。 温暖化の時代というのに、人間にこらえ性がなくなってしまいました。 あまりにも行過ぎた暖房施設は生活の知恵を逸脱してしまったかのようです。  前に見た映画「The day after」の中で、気候の異変で大寒波に襲われたニューヨーク。 図書館に避難した人々が、生き延びるために貴重な蔵書を燃やして暖をとる場面がありました。

ハーシーズのチョコは私のお宝だった

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  Hello,G.I.! Give me chocolate ! 私が初めてしゃべった英会話かもしれない。 G.I.とは ”Government Issue” すなわち アメリカの兵士をさす略語である。 ちなみに、女性兵士は“Wack”これも、その当時誰かが教えてくれた。 もっとも、当時の女性兵士はツンとすましていて近寄りがたく、声などかけられなかったが・・・。 1945年の終戦当時、子供たちはジープの米兵に向って、口々にチョコレートーやキャンディをねだったものだ。 陽気なG.I.たちは、ガムを噛みながら、にこやかにわかった、わかった、という仕草をしながらキャンディやチョコレートを子供たちに配ってくれた。 私もその仲間に入って手を差し伸べた。 彼らはなぜ、口をもぐもぐさせているのだろう。 不思議に思ったが、チューインガムであることを知ったのは、もっと後のことだ。 米兵は小さな子から順番にチョコなどを渡してくれる。 私はその手からひったくるようにして、すぐその場から一目散に逃げ出したものだ。 さもないと、大きな子(多分、戦災孤児たちだろう)に脅されて取られてしまうからだ。 家の玄関でむらさき色の紙からチョコを出しかじりだした。 顔をあげると母が怖い顔をして私をにらみつけている。 そのうち、母の眼からポロポロと涙がこぼれてきた。 途端、チョコを持った手をねじり上げられた。 「乞食の真似をして! そんなことはやめなさい」 母は背を向け去っていった。 鼻をすすり上げているところを見ると,まだ、泣いているのだろう。 まだ6歳の子供心にも大きなショックだった。 それでもチョコを取り上げられなかったところから見ると、母の涙は私の卑しさをたしなめるだけでなく当時の食料難だった時代、ろくに子供におやつも与えられない彼女の苛立ちや悔しさもあったのであろう。 私もまた、齧りかけのチョコを手にしたまま、すすり泣くだけであった。 父が復員し、家の台所事情も好転してきた。 闇市からは米軍の戦時食の「レーション」という長方形の箱が手に入った。 ふたを開けると、中にはターキー(七面鳥)のシチューやコーンビーフの缶、ビスケットなどが入っていたと記憶している。 3本入り? のラッキーストライクの煙草とともに、かならずあずき色の包装紙に銀色のハーシーズの文字が浮かんでいる小さなチョ