投稿

8月, 2006の投稿を表示しています

すいとん汁の味を知っていますか

  「すいとん」という言葉の由来は知りませんが、 戦後の闇市派である私は、当時すいとん汁をいやおうなく食べざるを得ませんでした。   いまどきの若い人は、理解できないとは思いますがその料理のレシピは                               *** 塩味の汁 メリケン粉(小麦粉)をこねた団子 大根の葉 さつま芋(農林1号という白っぽく、水気が多く、甘味の少ないさつま芋) たまには、干し鱈 それらが入った程度のものでした。 それに、主食の大豆ごはん 麦と大豆のあいだから、まばらにお米が顔を出していました。                               ***   時は、1990年代、私は中東の、とある石油基地に勤務していました。なにも娯楽がない沙漠の中、やはり、食事は唯一の楽しみでしたね。  ある晩、独身寮ではおきまりのマージャン・パイがかき回されていました。イーチャンが終わり、その部屋のあるじの手料理がふるまわれました。ジャン仲間の日本人食堂のコックさんもシロート料理をつつきながら雑談、これも日々の仕事のストレスからの開放に役立っています。  手料理に箸をつけている戦中派の一人が言いました。  「戦争中や戦後はこんな、美味いものはなかったな」  こんな、沙漠にも日本からはいろいろな食材が送られてきますから、シロートでも結構美味い料理が作れます。    「すいとん汁ばっかりだったなあ~」 懐かしげにつぶやく戦中派のそばで、コミック誌を読みふけっていた若者が訊ねました。  「へえ~、すいとんってなんスっか?」  「えっ、君はすいとんを知らないの」  それを聞いていたコックさんが口を挟みます。  「それじゃあ、明日の昼に作ってあげますよ」  翌日、日本人食堂ではカツや魚などの豪華な料理に交じって、懐かしい「すいとん汁」が振舞われました。私の隣の戦後闇市派の一人が言いました。  「すいとんって、こんな美味かったっけなあ・・・」  「昔、俺が食べたのは、さつま芋のつるが入ったやつだったよ」  私も汁を一口すすってみて、昔に食べたものとは大分違うなと感じました。なぜなら、だしがきいていること、具が豊富なことです。 小麦粉のだんごはさておいても、えび、しいたけ、かまぼこ、ほうれんそうなどが入っています。  二人でもう一杯、お代わりしました。  翌日

消えた日本の風物詩ー町の物売りの声

イメージ
 最近、我が家のそばにも  「さおや~さおだけ~」  懐かしいさお竹屋の声が響いています。 車にのせたスピーカーからの音です。 最初はノスタルジーを感じましたが、段々と煩わしくなりました。 今どき竿竹なんか使う人がいるのでしょうか。アルミやプラスチック・ポールが主流の世の中です。聞くところによれば、本物のさお竹を売っているわけではないそうですが・・・・。  昔の日本の風物詩であった町の物売りの声は、今はもう機械的な騒音にかわってしまいました。残念です。 かつて町々に流れていた売り子の独特の節回しの声はそれぞれの風情があり、情緒豊かだった当時を懐かしく思い出します。 なっと~ お 、なっと・・・・・、なっと・なっと~ お  なっと~  納豆売りの少年は朝6時半に近所にまわってきます。「なっとうやさーん」 母が声をかけ、毎日、朝食のために買い求めていました。 (昭和20年代) きんぎょ~ きんぎょえ~  初夏、たらい桶二つを天秤棒で担ぎ、金魚屋さんがやってきます。近所の子供たちとたらい桶の中の色とりどりの和金や出目金が泳いでいるさまを、物珍しそうに眺めていたことを思いだします。 金魚に触ろうと桶に指を入れて、「コラッ!」と怒鳴られました。 (昭和20年代)  母にねだってようやく買ってもらった出目金を金魚鉢の前で飽きもせず見つめていました。 この金魚、弱っているのか2~3日で死んでしまいました。 姉とともに庭の片隅にお墓を作り、手をあわせました。  プープープー プープ・プウ・・・・ と お ふ~う~い  夕方になると、ラッパの音とともに豆腐屋さんが自転車のうしろにリヤカーを引いてやってきます。 大きなアルマイトの弁当箱をもって買いにゆくのが私の役目でした。ちなみにこのアルマイトの弁当箱とは、のちによく言われる「ドカべン」です。 (昭和30年代初め) え~ くずい~ くずい~  屑屋さんは一ヶ月に一度くらい回ってきます。我が家には黙って門の中に入ってきます。母がまとめておいた軒下の不用品を回収し、そばの箱になにがしかの小銭を入れて帰っていくのが常でした。 (昭和の40年までには消えてしまいました)  この頃からでしたか、ちりがみ交換のスピーカーの声がちまたに出現したのは・・・。    時代が移るにつれ、売り子の声も変わってきました。 売りのせりふが長くなってきたようです

残っていた戦時中の防空電球

イメージ
   押入れを整理していたら、変わった電球を見つけました。 私の頭の中の古い大脳皮質がすぐ反応、太平洋戦争中の 防空電球 とよばれていたものです。 それには、こう記されています。 *** マツダ製 100V 10W * 東部防空司令部認定済 三~四畳半畳用 * 使用前ニハ必ズ包紙ノ注意書ヲ御読ミ下サイ *  残念ながら、包装紙はないので、その内容はわかりません。    戦争末期の昭和19年末、B29の爆撃が日本各地に行われていました。その頃、私はまだ5歳の子供でした。   「トントン・トンカラリと隣組、格子をあければ顔なじみ、回してちょうだい回覧板・・・」  当時、童謡で唄っていたこの隣組から回覧板がまわってきたのをまだ覚えています。  戦闘帽をかぶったおじさんが[空襲警報が発令されたらすぐに家の電気を消して、1つだけ防空燈を付けてください。周りには黒い布をかけるように」  そう母に言っていたのを横で姉とともに聞いていたと記憶しています。父は出征中でした。  「空襲警報、発令、〇〇機の敵機が帝都上空に・・・・・・・」  夜、ラジオからこんな放送が流れてきます。母は居間にぶらさがっている電球を、空襲警報のサイレンが鳴るたびに急いで防空電球にとりかえ、電灯の傘に黒い布をかけていました。  私の通っていた幼稚園では、防空頭巾を被りしゃがみこんで防空演習ばかりです。    「両ひざを、おなかにつけて目と耳を押さえ、下腹に力をいれなさい。さもないと、爆風でお腹が破裂してしまいますよ。」 と先生。ここの天井にも防空電球が黒い布に巻かれ、だらりと下がっていました。  空襲が激化し、いよいよ私達も疎開することになりました。疎開先、ここでは空襲もなさそうでしたから、煌々と電灯がついていたので、ほっとしたものです。  終戦後、私達一家は焼け野原の東京に戻ってきました。奇跡的にわが家は焼け残っていました。   もう空襲はありません。だが、物資の不足の時代、父が復員し、妹が昭和23年に生まれてからも、なおも防空電球はわが家では使われていました。風呂場の脱衣所や便所の手洗いの一点にほのかな光を与えていたのを覚えています。  懐かしさもあって、私はこの古い電球をソケットに付けスウィッチを入れてみました。途端、あの暗い時代の光が灯りました。半世紀以上も眠っていた防空電球。まだ健在でした。  もう