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近江路の城を歩くーその4 浅井長政とお市の方の小谷城跡

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    彦根からタクシーで小谷城跡に向かう。車は勾配の急な坂道を登ってゆく。ハイキングの人々を見かけるが時間が限られた一般の旅行者にはタクシーはありがたい。 戦国の歴史で小谷城の攻防ほど悲惨だったものはない。 織田勢に攻められ落城。お市の方と 茶々、江、初の三姉妹は城から助け出されたが、お市の方は生涯で二回、茶々は三回の落城を経験して命を落とす。   浅井長政はその死後も信長によってその頭骸骨は父とともに髑髏杯に作られ、さんざん愚弄されたという。秀吉の側室になった茶々(淀君)も大阪城落城で息子の秀頼とともに命を落とした。お江が徳川秀忠の正室となり、浅井氏の血筋が受け継げられているのが救いだが。  そんな、痛々しい過去の城のイメージをもっていたが、数百年の時は城跡を美しい自然に塗りかえてくれていた。タクシーは城跡の門まで行けるが、それにしてもこの急峻な山城跡を歩くのはいささか息が切れる。  大広間、本丸跡は広場になっている。当時は相当立派なお城であったらしい。  織田勢が布陣した虎御前山、小谷城とは道路を挟んだ目と鼻の先だった。  小谷城から見下ろす景色は当時の戦塵は跡形もない。正に、国破れて山河在り、城春にして草木深しーである。  城跡をあとにして、姉川のほとりに来た。元亀元年(1570)の姉川の合戦は信長が天下を目指す過程で転機となるものだ。わが祖も18歳でこの戦いに初陣、織田方の稲葉勢に属し戦ったところでもある。映画やTVドラマで見る限り、姉川の幅は広く馬が水しぶきを上げて渡河してゆくがこの細い川幅では一跨ぎだ。いささか気抜けする風景でもあった。わが先祖はこの戦いで一体どんな手柄を立てたのであろうか。 周囲は静まり返っているだけだ。「つわものどもの夢のあと・・・」 ふと、芭蕉の句が頭に浮かんだ。  近江路の城を歩くー完

近江路の城を歩くーその3 井伊家の彦根城

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  織田信長の安土城跡、豊臣秀次の八幡山城址をみたあとJR近江八幡から彦根に移った。駅前のホテルにチェックインのあと、彦根の美味いものを求めて町を歩く。あった!まずは彦根丼を賞味。明日は彦根城の見学だ。彦根藩は幕府から預かった蔵米五万俵を加えて35万石の徳川幕府有数の譜代大名として明治まで続いた。桜田門外で暗殺された井伊直弼は13代にあたる。今回の旅では城跡ばかりだったが、現存の古城を見るのが楽しみだ。   JR彦根駅前の井伊直政の銅像、昔の武将はすごい兜をかぶっていたものだ。自分の雄姿を敵方にアッピールすると共に指揮を執る際に味方の兵たちには一目瞭然だったのだろう。なるほど、これが井伊氏か・・・。井伊の赤備えは家康に命ぜられ旧武田家から受け継いだもの。そういえば、真田勢も同じ赤だった。  会社勤めのころ井伊さんという方と名刺交換をした。彼は「いやあ、この名前で海外に出るときには苦労が絶えません。裏をみてください」と言う。名刺の裏側には例にもれずローマ字が。 I i  ? 入国の際、パスポートの名前が完全に記載されていない、と係官がいうのだ。その都度説明しなくてはならないのだ。大笑いとなったので彼が井伊家のご子孫であるかどうか聞きそびれてしまった。    閑話休題・・・。 彦根城  彦根駅前からは彦根ご城下巡回のボンネットバスが出ているが、歩いて彦根城内に向かう。  まずは内堀にかかる表門橋を渡り彦根城博物館、内部の見学を終えた時、人気のひこにゃん午後1時30分の登場時間。大勢の見物客が集まっていた。ひこにゃんは今ではお殿様より人気者のようだ。観光客はそろって写真撮影に余念がない。子供からも「ヒコニャ~ン」 の声援が飛ぶ。  表門山道から天秤櫓、太鼓門, 長浜城から移築されたという。これを抜けると本丸。   いよいよ国宝の天守だ。牛蒡積の石垣の上に三階三重の天守がそびえている。  壁には無数の矢狭間、鉄砲狭間が作られている。当時の鉄砲の射程距離は100メートル、高い天守から届くわけがない。無意味じゃないかと案内人に聞いたところ発砲の音で驚かすためだとと言う。考えてみると、彦根城築城から後は明治まで戦いはなかった。いまでは三角、四角の窓が観光客の目を楽しませている。これも良しとするか。  彦根城は井伊家が近江にやってきた時築城され、1603年から1607年のあいだに主