船の紋章― 江戸時代の各藩の船印はこうだった。
暇にまかせて書斎を整理していると思いがけない一品に遭遇します。もう見もしないだろう古文書の類です。 「関舟馬舟三品覚書」「諸国舟帳」 表書きにはそう書かれていました。私の先祖は加賀藩で碌を食んでいましたから御用係りでその書を作製したに相違ありません。宝永五年7月(1708年)と記されていますから今から306年前の書物です。はて、これはなんじゃ?と紐解くことにしました。 関舟馬舟三品覚書 には、加賀藩(今の石川県)の港に出入りする中国地方、四国、西国の諸家の船の長さや艪、帆の形など詳細がしたためられています。 また、 諸国舟帳 には極彩色で描かれた諸藩の船印が描かれています。毛利、松平、浅野、伊達、などの諸大名のほか、朝鮮貿易に深いかかわりのあった対馬の宗對馬守など66の船印がありました。その横には藩の責任者の船奉行の名も丹念に記入されています。 絵の退色を防ぐためか、この書の1ページごとには薄い和紙が挟まれており大切に保存されていた様子が伺えます。 う~む、海を行き来する北前船のロマンが伝わってきますね。江戸時代i末期には有名な廻船問屋の銭屋五兵衛の船も関わったのでしょうか? 時間が経つのを忘れ一つ一つを見比べていきました。 なるほど、諸藩との貿易で行き来する多数の船は百万石の加賀藩の経済を潤し、また日本各地の豊富な情報は現在の加賀文化の基礎となったものと推測されます。 船印は日本にはこの時代よりもっと古くあったようで、瀬戸内海の村上水軍は帆別銭という通行税をとっていたとのことです。海賊だったとも言われていますが支配する海域を航行する船には水先案内人を乗せ 「上」 の船印を掲げていたので関所税を巻き上げる海賊行為であったとは思いません。 外国に行き来する船舶の船尾には国旗(船印)が、かならず掲げられてます。しかし、現在では日本の商船会社の運行する約1,900隻のうち日の丸が掲げられているのは、このうちわずか5%にすぎません。船舶会社は税率が低く人件費が安い、いわゆる「便宜籍船」とよばれるパナマやリベリアなどに登録しているからです。 周囲を海に囲まれたわが国、昔のように日本船団によって外国貿易が振興するようにしたいものです。外国に行った時、日の丸を見てほっとするものですね。